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狂戯を喰む(3)

 涼景は犀星の前に進み出ると、馬を降り、手を差し伸べた。犀星はその手を取ることなく、身軽に馬台の上に飛び降りた。長い裳の裾が軽やかになびき、硬く結んだ帯の端が大きく揺れる。その仕草ひとつが、皆のため息を誘った。  頼むから、見せつけないでくれ。  うっとりとしている部下たちを見て、涼景が片眉を上げた。  涼景の先導で、犀星は瑞祺堂の階を登った。  青塗りの外門の上には、金縁の扁額がかけられ『慶』の文字がわずかに雨の雫を残して輝いていた。  前庭の石畳は、塵ひとつなく掃き清めれていた。左右に植えられた紅梅と白梅は、花こそないものの、その枝ぶりは見事に青空を切り取って、のびやかに天を突いていた。  涼景と数名の近衛を先頭に、犀星は中央を静かに歩んだ。  庭に待ち構えていた禁軍の兵たちが、形ばかり恭しく、犀星に頭を下げている。だれもが、田舎育ちの垢抜けない少年を想像していた。  目上の相手の顔を直視することは非礼にあたる。あからさまに見る者はいないが、その視線は確かに犀星を追っている。犀星は、侮蔑すら含まれるその視線にも、涼しい顔を崩さなかった。  歌仙親王が見せる初めての艶姿に、宮中に慣れた禁軍兵士も驚きを浮かべた。  首元に覗く内襟は、白い肌に映える鮮やかな緋色である。髪色よりも少し薄めの青い中襟、外に重ねた深衣は黒く、光沢のある厚手の絹だ。背中には銀糸で山岳の紋様、袖には唐草が縫い取られている。  緩やかな曲線を描く黒裳が垂れ、連珠の模様のある裾は引きずらぬよう、東雨がそっと捧げている。胸元には、琥珀の玉を銀糸で連ね、袖口には東雨が密かに仕込んだ細鈴が鳴る。  艶のある蒼い髪を高い位置で双環に結ったのも、簪についた玉飾りを磨いたのも、東雨の手によるものだ。  着飾ることを好まない犀星にここまでの装飾を施すことに成功したのは、ひたすらに東雨の功績であった。  美しい衣装は、犀星のそのままの魅力をさらに引き立てた。  やはり、見事に化ける。  涼景は周囲の嘆息とともに、自らも息を吐いた。  本人の意思とは関係なく、外面の美しさは、宮中においては諸刃の剣である。  そして、犀星はまだ、その使い方を心得てはいない。  危うすぎる。  涼景の不安はもっともなことであった。  宮中には、男女問わず、開放的な性文化が存在する。  特に宝順は、相手を支配する手段としてそれを利用する。  中でも落胤の恐れのない男色は、支配欲を満たし、服従を強いるには好都合だった。  見目の優劣だけではない。実力のある者、周囲の信頼を得る者、謀反の嫌疑をかけられた者、など、宝順の目に留まったが最後、逃れる術はなかった。  それは愛欲ではなく、もっと原始的な暴力である。  受け入れるか、自害するか。  いかなる手段を用いようとも、涼景には、犀星を見殺すことはできない。  犀星の絶対的な信頼を勝ち得ているという自信はまだないが、涼景から捧げる忠誠は揺るぎないものであった。  かつて、犀星の養父に幾度となく命を救われ、また、進むべき信念を学んだ。犀星が宮中に上がれば、必ずやその身を守ると約束も交わした。  それはすべて、涼景と犀遠との間の理解であり、涼景と犀星との関係の構築は、いまだ道半ばである。  犀星を中央に、その周囲に右近衛、さらに外側に禁軍の兵が守りを固める。  大国・(かん)の第四親王として、犀星の地位は今日、公のものとなる。  皇家が長く望んでいた神の血統・玲家の血を継いだ犀星は、国の歴史上、唯一の存在として、みなの注目を集めていた。  宝順が玲家有利な盟約を交わしてでも手に入れた、玲親王・犀星は、これからの国を左右する玉石である。  瑞祺堂本殿の中央入り口は、犀星にのみ開かれていた。  涼景は近衛を連れて右の扉から、禁軍は左の扉から入場する。東雨ひとりが、犀星のそばを許されていた。  青瓦屋根に赤柱、金飾りの壮麗な殿舎は、奥に浅く横に広い。  中央の席に、皇帝・宝順が座して待ち構えていた。  その前には、高床の壇と祭卓が置かれ、冠、玉帯、笏、親王印など、犀星に贈られる品々が、艶やかな紅色の絹の上に並べられている。  格子天井は高く、濃いほどに香が焚かれ、舞楽を奏でるための小楽隊も備える。  宝順は、濃紫の深衣をまとい、同色の緩やかな裳と、黄金の玉飾りを赤金の帯に通していた。深衣には、皇帝にのみ許された龍の金刺繍がある。  低く、弦楽が奏でられ、近衛と禁軍が左右に並ぶ。  その中央を、犀星はゆっくりと進み出た。  東雨が、そっと、裳を引いた。  立ち止まってください、という合図だ。  犀星は何事もなかったかのように歩みをとめ、静かに腰をかがめた。  東雨は丁寧に裾を床に広げると、近衛の側に後ずさった。  皇帝の脇にい中書舎人が、一歩、進み出た。  楽隊の中から、ひとつ、時を告げる銅鑼の音が響き、静かに、香の中へと散っていく。  音の余韻のわずかに残る中、舎人によって詔が読み上げられる。 「天の時満ち、地の理整い、万象和しき日を得たり。今、皇家の恩徳により、玲星、字を伯華と称す者、その才、仁を備え、忠をもって朝を支えしことを望み……」  抑えた銅鑼が鳴り、さらに笛の音が静かに響いた。  舎人は笏を掲げた。 「ここに命ず。玲星をして、玲親王の位に封じ、皇帝の弟たる皇家の正統の一翼となし、これを迎え奉る。その号を歌仙と為す」  犀星は薄く目を開き、数歩先を見つめていた。  今、この時に、自分は犀星の名を離れ、ひとり、歩み始めねばならない。  だが、その心には、号として与えられた『歌仙』の二文字が、何よりも心強く息づいていた。  たとえ、いかなる土地で、いかなる名で呼ばれようと、我が心は君のもとにある……  皇帝への忠誠などと、比べようもない。犀星の心はひとところに、ただひとりの人へと向いていた。  陽。  心で呼べば、怖くはなかった。  中書舎人が、おごそかに下がった。  代わりに、宝順が立ち上がる。  涼景以下、近衛も禁軍も、向きを正した。  宝順帝は、この国の頂である。誰一人として、その顔を直視することは許されない。皆が面を伏せるなか、宝順だけが、すべてを見回していた。その中心に、年若い、美しい弟がいる。  かつて、父であり先帝であった蕭白は、後の災を恐れ、生まれたばかりの犀星の命を狙った。  それを妨げ、歌仙へと逃したのは、宝順である。  ようやく、取り戻した。  誰ひとり見る者のない宝順の口元に、やんわりとした笑みが浮かんでいた。  血を分けた弟に対するものか、それとも、玲家の力を欲するゆえか。  知る者はいない。 「玲親王」  宝順の低い、重たい声が犀星を呼んだ。 「今日この佳き日を迎えられしこと、まことに喜びとする。今よりは皇家の一柱たる親王として、帝弟として、朝に仕える責を負う者なり」  犀星はじっとその言葉を受けたが、表情に感情はなかった。 「汝に命ず。この先、朕のため、国のため、そして広く万民のために、誠を尽くし、力を尽くせ」  力は尽くそう。だが、それは……  犀星のまつ毛がかすかに震えた。  宝順は口調をゆるめた。 「朕は、汝が真なる忠誠を心に誓い、その誓いを言のみならず、行いとして示すことを望む。励み進むがよい」  やはり、そうくるか。  涼景が、ちらりと犀星を盗み見た。宝順の言葉は、決して形式だけのものではない。あらゆる手段をもって、自らに従うことを強要する意思の表れだ。  支配される。  疑惑が確信に変わる。  気を強く持てよ……  祈りを込めて、涼景は犀星を見つめていた。  帝からの言葉に続き、次は、犀星が答える番だ。  打ち合わせ通り、犀星は一歩進み出て、姿勢を正した。目線は皇帝の胸元へ、しかし、居並ぶ者の目には、そこに宿る強い輝きがはっきりと見てとれた。 「皇帝陛下の御言葉、ありがたく拝し、謹んで感謝申し上げます」  凛として、犀星の声はよく通った。  弦楽の音色を交えて、まるで詩歌のように美しく響く。  東雨が、ホッと、息をついた。  答辞は、犀星を言い含めながら、どうにか覚えさせたのだ。  東雨から習ったとおり、犀星は淀みなく言葉をつむいだ。 「この身、親王の位を賜りしよりは、国に仕え、政に臨む者として、誠心誠意、与えられし役目を果たす覚悟にございます」  若様、立派でした!  東雨は満足そうに小さく頷いた。  だが、少年の安心もここまでだった。 「……たとえ」  え?  東雨の笑みが凍りつく。  この言葉に、続きなどはないはずだ。  暗唱の稽古に付き合わされていた涼景も、疑問を感じて東雨に目配せした。東雨は泣きそうに目を歪めて、知らない、と首を振った。  犀星はただ静かに、続けた。 「たとえ、天上の太陽が落ち、世の光が尽きる日が訪れようとも、その輝き、その美しさ、その残像は、臣の胸より、決して離れることはないでしょう。ゆえに、小さき星のひとつとして、黙してこの世を照らし、忠を尽くす所存にございます」  やりやがった!  同時に、涼景と東雨は下を向いた。  何も知らない者には、犀星の真意はわからなかっただろう。皇帝なき後もその志を継ぐ、万世の誓いと捉えたに違いない。  だが、あきらかに、犀星が口にした太陽とは、『陽』に他ならなかった。  一歩間違えば、侮辱罪として切り捨てられても言い訳の立たない発言だ。  あとでぶん殴ってやる、涼景は拳を固めた。  若様、夕食抜きです、東雨は心に決めた。  幸いにして、この場には犀星の心に気づく者はなく、戴冠式は混乱なく、幕を下ろした。  瑞祺堂の中庭には、秋の始まりの気配が見え始めていた。  銀杏の葉が金の鱗のように舞い、苔の上に音もなく降り積もる。石垣で整えられた池の水面は凪ぎ、涼しい風が水面に細かな波を立たせた。色づく葉の間から、透き通る日の光がこぼれおち、石畳に揺れている。  遠くで香を焚く匂いが、濃くも薄くも、ただよってくる。  庭に設けられた宴席には、犀星の戴冠を祝うため、大勢の官僚が待ち構えていた。  宝順が北を背にして座ると、犀星はその東の席についた。庭の周囲には、近衛と禁軍の兵が交互に並び、内外の警備にあたる。犀星に一番近いところには、涼景がさりげなく立つ。 「掲げよ」  宝順の号令とともに、中庭中央の大きな篝火が、晴天に燃え上がる。  犀星は、宝順からの盃に一口だけ口をつける。それから、自ら立ち上がり、待ちくたびれていた官僚たちに、一言礼をのべ、杯を掲げた。  明るい初秋の庭は、一気に華やかさを増した。  舞姫たちが優雅に風に衣をはためかせ、宮廷付きの楽団が高々に演奏を始める。  次々と運ばれてくる酒と、豪勢な料理の数々。そのほとんどは、犀星が初めて目にするものばかりだ。  白絹が貼られた卓の上に、金模様の漆器と白磁の器。金目鯛と栗の翡翠煮が湯気を立て、香ばしい香りが広がる。鹿肉を柔らかく酒蒸しにし、雲丹と塩豆の天津もある。菊花と百合根の白酢和えは、目にも鮮やかだ。  東雨は、所在なさげに涼景の後ろあたりに突っ立っていた。残念ながら、目の前にいかな料理を並べられようとも、それが東雨の口に入ることはない。  この際、兎でもいいから食べたかった……  東雨は生唾を飲んだ。  無表情のままに座っていた犀星は、そっと、膳の傍に置かれた高杯に目をやった。そこには、氷桃の蜜漬けを乾燥させた切片が、扇形に盛り付けられていた。  犀星はそっと手を伸ばし、敷かれていた布で、氷桃を包むと、袖に隠した。顔は前に向けたまま、その手を涼景に伸ばす。意図を察して、涼景は袖の中で、包みを受け取った。わずかに微笑み、東雨の手に預ける。布を開いて、東雨は子供らしい笑みを浮かべた。  犀星の、こういうところが東雨は大好きだ。  料理や菓子にばかり目が行くのは、東雨だけだった。

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