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狂戯を喰む(4)
他の者たちの狙いは、犀星一人である。
まだ都に慣れない初心な犀星を、どうやって味方に引き入れるか、利用するか、飼い慣らすか。
そんな思惑が誰の顔にも見え隠れする。
人脈は、美酒にも勝る。
一見穏やかに見える庭も、裏では陰謀と血生臭い思惑が渦巻く場所である。味方を得て、自分の手駒やら後ろ盾を増やすことに余念のない者ばかりである。
わかっていながら、犀星はそんな者たちの盃を断ることなく受け、世辞と知っていて聞き流した。
表情が和らぐことはないが、むしろ、不満を表さないだけ、成長したのだと東雨は胸を撫で下ろしていた。
犀星には、後ろ盾がない。
通常、親王として即位する場合、母方が貴人の家系であることが条件である。母の一族は、自分たちの血を継ぐ親王を全力で擁護し、政敵から遠ざけた。
しかし、犀星は旧家玲家の出身ではあれど、母はすでにこの世になく、また、歌仙の玲本家も犀星を盟約の交渉材料として皇帝に差し出すのみで、守る意思はない。
犀星の身は、宝順の私物と同じだった。
それを案じた涼景が、事実上の後見人として、影のようにそばにある。とはいえ、涼景の宮中での権力も、絶対のものではない。出世のために宝順と情を通じる、と見下され、高位の文官たちからは蔑まれることも多い。
犀星本人が、一日も早く、自らの実力を知らしめ、周囲を黙らせる必要があった。
だが、今の犀星はまだ、政治を執るどころか、宮中の慣わしも知らない、無垢で無力な存在である。
決して、宮中の人間を信じないように。
涼景がまず、その一事を犀星に叩き込んだのは、それが非力な犀星にできる、唯一の防衛であったからだ。
敵を作らないこと。
人に飲まれないこと。
この場における犀星の目的はそれだった。
今の犀星には、狡猾に都で生き抜いてきた貴族や官僚に立ち向かうだけの力はない。
母を亡くし、兄弟である帝でさえ、信じるわけにはいかない。
犀星の立ち位置は、そのような完全に孤立したものなのだ。
まさに、狼の群れに放り込まれた兎、である。
周囲もまた、それをよく知っている。彼らの多くが、今日、初めて犀星の姿を目にした。中には、田舎者の愚鈍な小僧だろう、と陰口を叩いていた者もいる。
しかし、目の前に現れたのは、到底、自分達には及ばない身のこなしと、目を見張る美貌の少年だった。
宴が進むにつれ、誰もが、皇帝にはない、人を惹きつける犀星の魅力に気づき始めていた。
いつもは高飛車に自分を見下している官僚が、犀星に羨望の目を向ける様子を、東雨は目をきらきらさせて見つめていた。その手には、自分だけが犀星とつながっている証のような菓子が、大切に握られていた。
と、明るかった表情が、官僚の中にひとつの顔を見つけて、凍りついた。無意識に震え、東雨はそっと涼景の影に隠れた。
「どうした?」
ささやくような涼景の問いかけにも答えず、東雨はじっと、ひとりの男を見ている。その頬はすっかり青ざめていた。あまりに、いつもの東雨らしくない。
涼景は視線を追って、鳶色の装束の男にいきついた。
中年の背の低いその男は、宝順に挨拶をしたのち、犀星の前にすり足で近づいてきた。
「歌仙親王殿下におかれましては……」
男は、うやうやしいながらも、どこが下卑た表情を浮かべながら、一通り、決まり文句を並べたてた。
「そなたの運びに感謝する」
犀星も、特にそれ以上話をする気もなく、他の者たちと同様に、一言で、追い返そうとする。が、男はそこでまた、口を開いた。
「……して、殿下。東雨はしっかりと努めておりますでしょうか?」
「ん?」
思いもよらない話題に、思わず犀星は改めて男の顔を見た。
口髭は薄く、目つきが鋭い。
「東雨を知っているのか?」
興味を引かれ、犀星は問いかけた。
「ええ、それは、もう!」
男は、高頼 と名乗っていた。立場としては左相にあたる。権力者には違いないが、どうにも威厳がない。官位を姑息な手段で手に入れたように思われる。
「東雨は、二歳の頃から、私が仕込みましたゆえ」
スッと、犀星の無表情の下に、冷たさが宿る。高頼は気づかない。
「殿下のおそばにお仕えするべく、一通りのことを学ばせましてございます」
犀星は、じっと、高頼の下げられた顔を見つめた。そのやりとりに、宝順も気づいたらしい。微笑を浮かべてふたりを伺っていた。
「それで、いかがですか、具合の方は」
「優秀すぎるほどだ」
犀星の言葉に嘘はないが、同時に温度も感じられない。
「お褒めいただけましたこと、光栄でございます」
高頼のいわんとしていることが、犀星にもわかっていた。それは視界の隅で、怯えた顔をする東雨を見れば、明らかだった。
「今後とも、どうぞ、ご贔屓に」
高頼は満足そうに笑みを浮かべたまま、いそいそと犀星の前を下がろうとする。
「待て!」
この日初めて、犀星は自分から、誰かに声をかけた。
高頼は驚いて振り返った。慌てて目を伏せるが、一瞬、犀星と視線が交差した。
その宝玉のような青眼には、憎しみとも怒りとも取れる熱が宿っていた。
高頼はいたたまれなくなり、腰を屈めて深く頭を下げた。
それぞれの話に夢中になっていた官僚たちが、何事かと、犀星を振り返る。
ただじっと座ったまま、犀星は高頼の冠を見つめていた。
声を荒げるわけでもない。
だが、無言のその横顔には、あきらかな怒りが滲んでいた。
まずい。
涼景が一歩、犀星に寄った。と、自分の袍の袖が引かれ、わずかに振り返る。下を向いたまま、東雨が助けを必要とするように、しっかりと握りしめていた。
東雨と高頼の関係を、涼景は知っていた。
まだ幼子であった頃から、高頼は東雨を厳しく躾けた。
当時、数年後に都に召喚される犀星の侍童の座を求めて、多くの官僚が、身寄りのない男子を引き取り、手塩にかけて磨き上げていた。
運良く犀星に取りいることができれば、自分もまた、出世に近づく。
彼らが男子に教えたのは、学問や宮廷内の決め事だけではなかった。犀星が皇家の血を引く以上、女をあてがう訳にはいかない。年若い親王が持て余さぬよう、落胤を防ぐための手管を教え込んだ。
幼い子にとって、それはどれほどの苦痛と恐怖であったことか。東雨もまた、そのひとりであった。
勝ち気で明るい東雨が、これほど怯えるという現実は、犀星の怒りを呼び起こすには十分すぎる動機だった。
しかし、相手が悪い。
東雨を使って得た地位とはいえ、左相は政治の片翼である。
涼景はその場で頭を下げた。
「歌仙様、どうぞ、おおさめを」
犀星の頬が、ぴくりと動く。
星、頼むから、引いてくれ!
涼景にも、犀星の怒りは理解できる。
だが、ここでことを荒立てるのは得策ではない。
「高頼」
犀星は、声を低くした。
弦楽の音が空々しく響き、舞手も動きを止めなかったが、明らかに空気は硬く凍りついていた。
誰もが、犀星の言葉を待った。
「よくやってくれた」
感情のない、犀星の声に、皆が息を飲んだ。
「私は、東雨を気に入っている。彼をどう扱うかは、私の裁量のうちにある。誰にも、触れさせたくはない。もちろん、そなたにもだ」
口調は静かで、言葉も丁寧ではあったが、それ以上の威圧が高頼を押し潰した。
犀星はかすかに、眉を寄せた。
「しかるに、二度と、その名を口にするな。次は言葉では済まさぬ」
涼景の陰で、東雨は長く息を吐いた。膝が崩れかけたが、手にしていた氷桃の包みだけは、しっかりと胸に抱いていた。
わずか、十五の力ない犀星が、実力の伴わぬ成り上がりとはいえ、一国の左相をねじ伏せた気迫。
それは、宝順を含め、その場の誰の記憶にも長く残り、語り継がれることとなった。
太陽が西に傾くころ、酒のまわった宴席に、軽武装の一団が入ってきた。彼らの腰には、白の佩布がある。
右近衛の別働隊であった。
先頭に立つのは、涼景の幼馴染にして、信頼も厚い副長・遜蓮章 だ。他の近衛が甲冑を身につける中、彼だけは女とまごう華やかな装いである。生まれついての妖艶な魅力に溢れた容貌には、自信と余裕があった。
まともな格好で来い、と言ったのに……
涼景は、親友を軽く睨んだ。蓮章は微笑し、これが俺だ、といわんばかりの顔である。
服装に似合わず、蓮章の所作は武人として完璧である。
美しい裾を翻し、引き締まった表情と作法で、蓮章は帝の前に膝をついた。続いて、近衛たちもそれにならう。
「皆様の帰路、護衛に参りました」
「手はず通りにせよ」
宝順は慣れていると見えて、蓮章のいでたちを特にとがめるでもなく、その場を任せた。
涼景の小隊は、皇帝と犀星の警護である。
官僚たちの警護と、それぞれの屋敷への見送りは、蓮章たちの務めだった。
蓮章は部下を振り返って頷いた。それを合図に、近衛たちはそれぞれが割り当てられている官僚の側へゆき、帰り支度を促した。
「では、参ろうか」
宝順はゆっくり立ち上がった。
涼景は一礼して従った。
他の官僚を蓮章にまかせ、自分の隊は犀星と宝順の道を守る。
ここからは、容易くないぞ。
涼景は、常に犀星を視界の中に捉えている。
夕方から夜へ。
確実に、犀星の体に欲望の手が伸ばされる瞬間が、近づいていた。
眠たげに目を伏せ、犀星は襟元から白絹の巾を取り出すと、そっと目頭にあてた。
辛そうだな。
涼景の目に、気丈に振る舞う犀星の姿は痛々しかった。
もともと、酒にも弱く、人の中にいることも苦手としている少年の疲労は、おしはかるにあまりある。
立ち上がろうとして、犀星の足元が危うくなる。
無理に重ねた酒は、少年には重すぎた。よろめいたところを、宝順が支えに入った。
「恐れ入ります」
堪えながら、歩こうとするが、思うようにいかない。犀星の蒼い宝玉の瞳が、夕日の光に潤んだように煌めいた。
涼景が横目で、二人の様子を見逃すまいと伺う。
「そなたのその瞳、まこと、美しい」
されるがままに、抵抗できない犀星の顔に手を添え、腰に腕を回して、宝順は体ごと引き寄せた。目を震わせ、犀星は宝順の唇を見つめていた。
ふたりの仕草は、あまりにあやうい。
皇帝と親王のすることである。涼景に止めることは叶わないが、それでもそっと犀星の後ろに寄った。
宝順の唇が、犀星の色薄い瞼に口付けた。
涼景は胸に込み上げた嫌悪を、必死に殺した。東雨がはらはらしながら、庭の隅で犀星を見守る。
宝順の唇が、犀星のまつ毛を撫で、弄ぶように瞼に触れる。
「そなたの母も、そのような目をしていたのか?」
「……いいえ。知る限り、わたくしだけでございます」
犀星はわずかに、呂律が回っていない。
涼景は目を離せず、震える手を握りしめる。
何をしている……!
焦燥が涼景の思考を焼いた。
決して油断をしないよう、再三、忠告はしてきた。それが、これである。
一滴の酒とて、命取りになる。
涼景はこれからを想像して、恐怖すら感じていた。
すでに酔いがまわっている犀星に、これ以上飲ませれば、その先にあるのは阿鼻叫喚。酔い潰れて意識を無くした親王を宝順がどう扱うかなど、それこそ、悪夢以外の何ものでもない。
輪姦 される……
涼景は身震いした。
「歌仙様をお支えしろ」
かろうじて、涼景は声を絞り出した。部下に命じ、まずはふたりを引き離す。
庭には、宝順と親王を見送る宮廷人が残っている。皆の前で、犀星が宝順になぶられるなど、涼景には我慢ならなかった。
衆目の中で犯された、自らの苦い過去が蘇る。
「参りましょう。陛下に馬を。歌仙様は輿にお乗せしろ」
庭の外で控えていた部下たちに命じると、涼景は自らも馬のあぶみに足をかけた。と、
「歌仙様!」
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