6 / 24

狂戯を喰む(5)

 部下の声に、涼景は犀星を振り返った。  犀星は近衛によりかかったまま、近くの茂みに崩れ、座り込んでいた。 「ご無礼致します」  たまらず、涼景は駆け寄ると、部下の腕から奪うように、一思いに犀星を抱きかかえた。  ぐったりと力の抜けたその身体。宝順が口付けた瞼が濡れている。  涼景は伏せた顔を歪め、自らの袖の端でそれを拭った。  碧玉の瞳が、チラリと涼景を見上げた。  星?  涼景はびくりとした。  犀星の頬は酒気に染まり、気だるく辛そうではあるが、奇妙に冴えた表情だ。  涼景の戸惑いに気づいたのか、犀星は彼にしか見えない角度で、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。  こいつ、まさか……!  さすがの涼景も、驚きを隠せなかった。息を飲み込み、視線を揺らす。  眠るように、犀星は目を閉じた。 「玲親王は?」  鞍上から、宝順が声をかけた。 「……はい、おやすみのご様子です」  帝を振り返って飄々と答えた涼景の顔に、すでに動揺はない。  直前までの心の波が収まり、涼景は一度、自分を取り戻した。犀星が何かを企んでいるのは明らかであった。単に、状況に流されているわけではない。  何をするつもりだ?  涼景には、犀星の考えが読みきれない。  賭けてみるか……  犀星を抱き上げ、丁寧に輿に乗せると、涼景は簾を降ろした。  宝順が選んだ二十名あまりの官僚が、列に加わり、同行する。  他の官僚たちは、蓮章の部隊とともに、その場で見送った。  去り際、涼景は、蓮章と目を交わした。  任せたぞ。  互いに、そんな信頼が交錯する。  中央区の道は美しく、整備が行き届いている。  この地区には、政治的な拠点が集中しており、貴人たちの邸宅も多い。  石畳は常に清掃され、落葉の季節であっても、葉に埋もれることはない。広い道の周辺は低木が茂り、よく刈り込まれて、見通しが保たれていた。  西陽が長く、影を伸ばしている。  道中には一定の間隔で篝火が灯され、すでに宵闇に備えて警備が厚くなっていた。  涼景が先頭に立ち、その脇を禁軍と近衛が固める。  中程に宝順の騎馬があり、その後方に、犀星を乗せた輿。  行列の一番後ろを少し離れてついてくる東雨の表情は、暗かった。  涼景から、この後に起こることを聞かされている。  高頼に仕込まれた通り、東雨は犀星の相手を務めるつもりでいた。それが役目、と教えられてきた。  しかし、犀星は決して東雨に触れなかった。  自分には魅力がないのか、と落ち込むこともあったが、真実を知った今は少しだけ、安堵していた。  犀星が東雨を相手にしなかったのは、潔癖であるゆえのこと。  ……きっと、あの、文の相手が大好きなんだ。  幼い東雨には、色恋の機微はわからない。  それでも、犀星の様子から、それくらいのことは察することはできる。  好きな人がいるのに、他の人に触られるなんて……  東雨の肌は、ざらついた高頼を覚えている。彼が連れてきた複数の男たちから受けた恐怖の記憶は、今でも薄らぐことはなかった。それは、東雨に肉の交わりそのものへの恐れを植え付けた。  他の誰かが犀星に触れるくらいなら、涼景の方がマシだと思う。  それでも、大切なものを傷つけられるようで、東雨は辛い。  黙って氷桃を渡してくれた犀星の横顔が、に歪むなど、耐えられなかった。  顔を上げると、最後尾の近衛から随分離れてしまっていた。東雨は駆け足で距離を詰めた。  彼らが目指すのは、帝の寝所にも近い、楼閣である。  聚楽楼(じゅらくろう)は、帝が好んで使う、言うなれば宮中の遊郭だ。  普段は芸妓や女郎を囲うのだが、今夜は賓客を迎える。  門構えは派手さを抑えた様式で、ひっそりと美しい細工が彫り込まれ、細部まで技巧が施されている。黒瓦のひとつひとつに細い金の紋様が埋め込まれており、遠目にも、趣向に特化した建物であることが察せられた。  門前で馬を降りると、涼景は部下の近衛を先行させ、官僚を先に中へ通した。  自分は自ら宝順の傍らにあり、背後に犀星の気配を感じる。  本心では、誰よりも犀星のそばにいたかったが、立場上、宝順を優先するしかない。  門をくぐり、細い石の道を通って、中へ入る。  二階造りに見える聚楽楼は、内部は大広間が一つだけである。床と天井の中間に、壁に沿って回廊が巡っている。階段で上がると、広間を見下ろせる構造になっている。  先に入った官僚の半数は広間に並び、残りの半数が回廊に登って到着を待っていた。  宝順に認められた者だけが、聚楽楼に足を踏み入れることができる。その中でも、さらに一部の者だけが、広間に通され、他は上から見物するのみとなる。  涼景は、広間の奥の高座まで、宝順に付き従った。宝順が座ると、一歩離れて、脇に立つ。涼景の反対側には、禁軍の大将が同じように屹立していた。  室内には螺鈿の細工の柱と壁、磨かれた銅鏡が随所に散りばめられ、わずかな光も乱反射して妖しく周囲を照らし出す。  鏡が鏡を映し、奥行きが延々と深く、現実感が遠のく。油灯の炎が無数に揺れる。  どこにいても、自分の姿が鏡の中に見え、目を背けられない趣向である。  唯一、鏡に映らない位置に、宝順の席が据えられている。自らが何かをするではなく、気に入った者たちが痴態を晒すのを、酒を手に眺めるのが、彼のやり方であった。時には、目の前で命を落とす者がいたとしても、それもまた、一興。  数十名の官僚たちは、帝の到着を受けて、恭しく首を垂れた。中には、先の宴席には招かれていない者たちも混じっていた。  涼景は、広間と上の回廊を見回した。  三十名は下らない。  右近衛隊を束ねる者として、涼景はこの場所で、何度も惨劇を目にしてきた。  自分に助けを求める声にも心を閉ざし、逆上して帝に近づく者があれば、斬り捨てた。累々たる恨みと憎しみと死体の上に、今、自分の地位がある。  そうまでするのは、ただひたすらに、故郷に残る妹の身を思えばこそだった。  自分の反逆はすなわち、妹の死を意味する。  宝順の考えも非情さも、涼景は身に染みている。  壁に沿って居並ぶ貴族たちは、宝順同様、好んでここへ足を運ぶ。中には、興味はなくとも、周囲との付き合いを考慮している者もいるが、それは少数だ。  数名の近衛が、輿を広間の入り口に下ろし、御簾を巻き上げた。  瞼ごしに感じた炎の光に、犀星はゆっくりと目を覚ました。  近衛に支えられ、犀星は広間の中央へ連れ出された。一人では立っていられず、その場に座り込む。後ろから東雨が駆け寄ろうとしたが、近衛に阻まれ、扉の外に追い出された。  閉ざされた扉の、中と外。  全てに決着がつくまで、その境界が開かれることはない。  涼景の耳には、犀星を呼ぶ東雨の叫びが聞こえた気がした。  この場に至った以上、なすべきことははっきりしている。  犀星が自我を保つこと。そして、自分を指名すること。  そうでなければ、この場にいる者たちが、犀星をどう扱うか、考えるだけでも身の毛がよだつ。  広間で帯刀を許されるのは、涼景のみである。禁軍大将すら、この場で剣を帯びることはない。それが、宝順に全てを明け渡して身を守ることを選んだ、涼景の得たものだった。  部下の近衛たちは、扉の向こう側で警備にあたる。 「玲親王」  帝が、倒れ込んでいる犀星を呼んだ。  その声に、犀星はゆっくりと立ち上がった。足元に危うさが残る。それでも、着衣を正し、流れるような動きで礼を拝した。  皆の目に、愉悦の色がたゆたう。  弱った、美しい親王は、格好の獲物だった。 「気分は?」  宝順は、深々と交椅にかけ、傍の几案に用意された酒の杯を揺らした。  犀星はわずかに目を伏せている。 「ご心配には及びません」  声は静かに、正気の気配があった。 「慣れぬ宴席での失態、ご容赦願いたく」  涼景は油断なく、室内を見回した。  誰もが、犀星の姿を見つめている。  それは、死刑の執行を見守る沈黙にも似ていた。  宝順は、傍にいた中書舎人に、杯を渡した。  涼景の唇が震える。怒りを抑えた涼景の視線を横切って、中書舎人が犀星のもとに酒を運ぶ。 「頂戴いたします」  やめろ!  涼景は歯を食いしばった。  犀星は躊躇いなく、一気に酒を飲み干した。目が放せない。 ​ その酒に媚薬が仕込まれていることを、涼景は知っている。  ただでさえ、大量の酒気に耐えている体に、その薬は即効である。いくら精神的に張り詰めようと、肉体はもたない。今まで、そんな者たちを嫌になるほど見てきたのだ。  犀星の意識が失せる前に、早く、指名を……  だが、決定権は宝順にある。いかに焦ったところで、どうにもならない。 「もうひとつ」  宝順の声に、咄嗟に涼景は振り返った。すぐに顔を伏せたが、残虐性を隠さないその表情が、目に焼きつく。 「はい」 ​ 断ることなく、犀星は素直に二杯目を飲み、深く息を吐く。  あまたの鏡に映る無限の空間で、犀星だけが静かに動く。  犀星の眼差しは、正気を保つぎりぎりのところだろう。  頼む、倒れるな!  涼景は祈った。  ここで気を失えば、身も心も引き裂かれる。  涼景の願いは空回る。誰のものとも知れぬ、たきしめた香の香りが混ざり合い、随所の行灯と油灯の炎が静かに揺れる。  宝順はただじっと、犀星を見つめている。待つだけで良い。酒と薬がまわり、犀星が屈する、その時が来るまで。 「次」  三杯目の指示が飛ぶ。 「……陛下、さすがに……」  たまらず、涼景が発した声をかき消して、 「頂戴いたします」  犀星の声が響く。  驚いて、涼景は振り返った。  犀星の方も、涼景を見ていた。ふらついた振りをして、わずかに首を横に振る。  ここで涼景が宝順の機嫌を損ねれば、事態は悪い方にしか進まなくなる。涼景の立場もさることながら、この場から追い出されでもすれば、犀星が彼を指名することもできなくなる。  俺は平気だ。  涼景には、犀星の、そんな声が聞こえた気がした。  強がりやがって……  涼景の心配をよそに、三杯目も飲み下すと、乱れた様子もなく、犀星は宝順に礼を返した。 「そなたを見せよ」  宝順が、低く命じる。 「宣誓を、忘れてはおるまい?」 「はい、陛下」  犀星の声は揺るがない。涼景の方が、焦燥と不安とで心臓が高鳴り、体が熱く火照る。  犀星の動きは鈍重ではあるが、躊躇はない。  帯を解き、紐を外して深衣を脱ぎ落とす。黒い絹が剥がれ落ちると、目が醒めるように明るい、薄い青色の袍が目に入った。腰紐を解く柔らかい指先が、見せつけるようにゆっくりと動く。布の擦れる音さえ聞こえる静寂。  涼景は視界の隅で、宝順の様子を伺った。普段よりも前のめりに座り、膝の上に腕を乗せている。  下衆が。  思わず、涼景は心で吐き捨てた。  親王として戴冠を迎えたその日も暮れぬうちに、多くの官僚の目に肌を晒させるその心理に苛立ちと嫌悪がたぎる。  犀星は決して、宝順に逆らう意思を持たない。  むしろ、養父犀遠、赤子であった犀星自身の命を救ってくれた恩義すら感じている。  そのような犀星に、この仕打ちが許されていい道理がない。  犀星が従順であればあるほど、涼景の憤りは凄まじさを増した。  ふっと、見守る官僚たちからため息が漏れた。  犀星の足元に、するりと青衣が落ち、紅の中衣が表れた。  薄い絹の色はどこか透明で、肌の輪郭も、腰に巻きつけた褌の重なりも透けて見える。  嘆息とざわめき、好奇と興奮の気配が、大広間に広がっていく。  裾の短い中衣から、白い素足が眩く見える。  ここまでにしておけ。  涼景は、そう願いつつ、ごくりと唾を飲み込んだ。  だが、犀星の手は止まらなかった。  中衣を整える紐をするすると巻き取り、ぽとりと落とす。

ともだちにシェアしよう!