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狂戯を喰む(6)

 はだけた前の合わせから、白い肌が覗く。  ゾッとする吐息が、二階の回廊からも降ってくる。  まるで、そうすることが当然であり、何を恥じる必要もない、迷わない仕草。犀星は袖から腕を抜いた。  こうも堂々とされては、涼景も何も言えない。  周囲で見守る官僚たちも、耳打ちし合いながら、期待を込めた眼差しを送っている。  命じた宝順自身さえ、犀星から視線が外せない。  曼珠沙華の花弁を思わせる薄衣一枚を、不安定に肩にかけ、犀星はかすかに震えた。絹に劣らぬ艶やかな柔肌が、衣の紅色と対比されて輝くように美しかった。  十五歳の、大人になりきらない身体は、欲望を掻き立てる色気を放ち、普段は視姦するだけの宝順までが、血のたぎりを感じた。 「髪を解け」  容赦無く、辱める気か。  たまらず、涼景は目を閉じた。  青みがかった、不思議な色合い長い髪が、油灯の光のもとで、妖艶に揺れ、背中に散った。同様に、稀有な色の瞳が潤んで煌めく。  うめく息が四方から上がり、それに誘われるように涼景が目を開くと、色画から抜け出してきたような少年の姿。  髪の蒼、衣の紅、肌の白。流線で縁取られたしなやかな肢体を晒しながら、犀星は真っ直ぐに立っていた。  宝順すら、魅入られる。  しばし、言葉を無くして宝順は犀星を見つめ続けた。  犀星は宝順の喉元に視線を向け、それ以上、顔を上げることはしない。  ふたりの間には、決して埋められない溝があった。お互いに、一線を引き、超えた方が相手の首をとる。  いずれ、ふたりの対決が避けられぬ日が来る。  涼景は覚悟した。だが、今はまだ、その時ではない。  宝順ならば、この場で犀星を斬り殺すことも容易だ。だが、犀星の気配が、その決定を許さない。  無防備な姿でありながら、犀星の意思は一歩も引いてはいない。  酒と薬で朦朧としているはずの犀星に、これほどの気迫が残されていようとは。  宣戦布告である。  この状況にありながら、か弱い親王が、権力の絶頂に立つ宝順帝に対し、言葉にならぬ挑戦を挑んでいる。  こいつ、やはり、只者じゃない。  涼景は、焦りも不安も吹き飛ぶ思いで、二人の無言の時間を見守った。 「面白い」  宝順がつぶやいた。 「そなたは、実に」  犀星は答えず、眉一つ動かさない。 ​「その姿、どう崩れるものか」  宝順は犀星を見据えたまま、未だ自分が有利であることを知っている。 「仰せのままに」  一切動じない犀星に、更に宝順はほくそ笑む。  宝順の悪癖に、虫唾が走る思いをしながら、涼景は次の一言を待った。 「そなたを貫く者を選べ」  不条理を感じつつも、涼景は安堵した。これで、とりあえず片が付く。犀星には申し訳ないが、一夜の情交には耐えてもらう他ない。  いつでもいいぞ。  そんな思いで、涼景は犀星を見守った。  犀星もまた、涼景を見ていた。交差する眼差しが、熱を帯びた。  声がかかるか、と涼景が身構えたとき、犀星の目がそれた。  犀星は、壁に沿って立っていた官僚たちに近づくと、端から順に、顔を見つめた。  官僚たちにしてみれば、犀星は目を合わせることの許されない相手である。その美貌を近くに見たいと思いつつ、恐れもあった。  犀星は手を延べて、彼らの頬に触れ、物色するように視線を上げさせる。  そこまでされては、目を合わさざるを得ない。だが、視線が合ったが最後、相手を射抜く青い眼差しに心を奪われる。みな、総じて、身体が強張り、情欲よりも恐怖に震えた。  犀星はひとりずつ、触れ、見つめ、次に移る。  それは、順繰りと心臓に短刀を突き刺すさまに似ていた。  ぐるりと、部屋を巡る。  広間の全員を射止めると、回廊へと視線を投げかけた。  身を乗り出して見下ろしていた者たちが、一斉に一歩引いて顔を背けた。  その無言の牽制は、あまりに圧倒的であった。  空間のすべてが、犀星の手中にあり、指一本動かすだけで、全員が跪くほどの迫力が満ちていく。  ただひとり、宝順だけは、その圧力の外にいた。  それは同じ皇家の血ゆえか、それとも、その気性によるものであるのか。  犀星は最後に、もといた中央へ歩んだ。足元には、脱ぎ落とした着物が柔らかく影をつくっている。 「さすがよ」  落ち着きを払った宝順の声に、犀星は頭を下げた。柔らかな髪が揺れて、その横顔にさらさらと流れる。  涼景が震えるほどに、その姿は妖しかった。 「決めたか?」 「はい、陛下」  犀星はわずかに、声を強めた。 「全員を、所望いたします」  ……この、馬鹿!  涼景は、思わず飛び出しそうになった声を飲み込んだ。  酔っているのか、薬のせいか、それとも、正気だとでもいうのか!  一瞬の静寂のあと、広間に、宝順の笑い声が響き渡った。 「よくぞ申した」  涼景は、地獄絵図を覚悟した。  殺されるぞ!  男も女知らぬ、未完成のその体で、これだけの相手がつとまるはずがない。  体は冷えて震えるほどだというのに、涼景のこめかみに汗が流れた。  まるで、最後の夕日の光を惜しむような眼差しで、涼景は何も言わない犀星の顔を見つめた。  そのとき、犀星の唇にうっすらと笑みが浮かんだのを、涼景は見逃さなかった。  小さく、宝順の唸りが聞こえて、涼景は皇帝に視線を走らせた。  膝を握る手が、確かにわずか、震えている。 「陛下?」  涼景の問いには答えず、ゆっくりと宝順は立ち上がった。歩幅を狭め、しずしずと犀星に歩み寄る。  まさか、自ら?  涼景はその背中を見つめた。  俯いた犀星の横で一瞬、歩みを緩めただけで、宝順はそのまま素通りし、扉に向かう。  門番が慌てて扉を押し開けた。 「涼景」 「……は、はい、陛下」  涼景の反応が一瞬遅れる。 「親王を無事、送り届けよ。今宵は終わりだ」  涼景は、思いもよらぬ宝順の言葉に耳を疑う。  何を言われたのか、思考が追いつかない。  そのまま広間を出ていく宝順を、慌てて、禁軍大将が追う。官僚たちも、我先にと、逃げるように急ぎ足で広間を離れた。  突然に、犀星と涼景だけが、部屋に取り残される。  宝順が、星を見逃した……?  そのようなことが、あるわけがない。  人の波が切れると、東雨が中に飛び込んできた。まっすぐに犀星に駆け寄る。  犀星は東雨の姿を見ると、気を失うように床に倒れ込んだ。肩にかけていた赤い衣が流れ落ちて、汗ばんだ白い背中に油灯の炎がちらちらと光った。 「若様!」  涼景は、東雨の声に我に返った。 「涼景様、どうしたら!」  見ると、東雨は犀星のそばに座り込んだまま、涙を浮かべていた。脱ぎ捨てた衣の上で、息も絶え絶えにうめきながら、犀星がきつく目を閉じている。明らかに尋常ではない。  今は、とにかく犀星の命が優先だった。 「来い!」  涼景は犀星を抱えて広間の隅に引きずっていくと、みぞおちに一撃を入れた。犀星はえずいて、込み上げたものを吐き出した。  大量の酒と、入り混じった薬の匂い。 「全部、吐いちまえ!」  背を叩き、体を抱えて促す。何度も嘔吐を繰り返し、犀星は息を荒げた。どれほど吐き捨てても、体に混じった酒気は、なおも意識を混濁させる。喉が詰まって、呼吸が鋭い音を立てた。 「東雨、水!」 「……は、はい!」  東雨は、広間の隅の瓶から桶に一杯の水を汲み、頭から犀星に浴びせかけた。  むせ返りながら、犀星はどうにか意識を取り戻した。口元を腕で拭う。  涼景は胸を撫で下ろし、大きく首を横に振った。 「馬鹿が……死ぬ気か!」  恨めしげな犀星の目が、涼景を捉えた。 「若様!」  ポロポロと涙をこぼす東雨に、犀星は微笑んだ。その笑みはあまりに儚く、力がない。それでも、東雨には何より嬉しかった。 「涼!」  広間の入り口から、張りのある澄んだ声が涼景を呼んだ。  蓮章が険しい顔で突っ立っている。 「どうやら、終わったようだな」 「何が起きたか、俺にもわからないが……」  蓮章は歩み寄ると、困惑している涼景の前に、白い巾を突きつけた。  その巾には見覚えがあった。確か、犀星が目を拭っていたものだ。かすかに、なにかを染み込ませた痕がある。 「宴の庭の茂みに、捨ててあった」  蓮章は水に濡れた犀星の、あまりに淫らな横顔を見た。 「|巴豆《はず》だな。まさか、あんな手段で盛るとは……」 「なに?」  涼景は愕然として、犀星を見つめた。思わず、犀星は目をそらした。 「……酒と料理の礼をしたまでだ」  焼けた声で、犀星は小さくつぶやいた。 「あの、巴豆って?」  東雨は袖で涙を拭きながら、問いかけた。  涼景は深くため息をつくと、呆れ果てた声で答えた。 「薬だ……腹を下す」     *  静かに夜が更けてゆく。  犀星を、都の邸宅に送り届け、涼景は、蓮章と連れ立って、宮中へと向かっていた。  虫の音が、遠くに感じられた。  あまりにも、多くのことがありすぎた一日だった。  それは激しい死闘のようでもあり、命懸けの博打のようでもあった。  そして、最後には、何もかもをひっくり返す大芝居だ。  すっかり老け込んだ涼景を、蓮章はぼんやりと眺めた。 「まさか宝順も、自分が舐めた親王の瞼に、薬が仕込んであったとは思うまい」  涼景はちらりと横目で蓮章を見た。 「当然だ。それがばれたら……」  想像するだけで、涼景は悪夢が蘇った。  ただの偶然。  宝順がそう思ってくれることを祈るしかない。  どこまでいっても、犀星には肝を冷やされる。  涼景は、幾度目かのため息をついた。  蓮章は、月明かりの夜道の先を見た。  人気のない闇に沈んだ道を、涼景と二人で歩くのはいつぶりだろうか。  犀星が都にきて以来、この実直な暁将軍は、若い親王にかかりきりだった。  まるで、片恋の相手を必死に追いかけるように。  傍に感じる親友の体温は、蓮章の肌に心地良い。  ……秋の深まる季節は、特に。  と、わずかに目を細める。 「涼」   呼びかける蓮章の声は、どこか艶めいている。 「うん?」  鼻を鳴らして、涼景は応じた。 「おまえが、どうしてあの親王に肩入れするのか、わかった気がする」 「なんだ。今更か」  そう言ったものの、涼景の声は力がない。 「俺は少し後悔してる」 「うん?」  今度は、蓮章が首をかしげた。 「あいつが、まさかここまで馬鹿な真似をするとは」 「馬鹿な真似ではないと思うぞ」  蓮章は、彼には珍しく、誰かを擁護した。 「俺から言わせてもらえば、親王を抱こうとしたお前の方がよっぽど馬鹿だ」  言葉の真意に涼景は気づいている。だが、そこには踏み込まない。それが二人の暗黙の了解だ。 「……あいつは、自分で自分を守った」  どこか悔しそうな涼景の声が、夜の空気にやけに馴染んでいた。どこかで諦め、負けを受け入れてきた涼景の目に、毅然として対決を選んだ犀星は眩しかった。 「……俺は、何もできなかった」 「そう、落ち込むな」  蓮章は小さく笑い、涼景の背中を叩いた。 「おまえは、よく、やってる」 「おまえに慰められると、余計に滅入る」 「なんだよ、素直じゃないな」 「お互い様だ」  ふたりの言葉が、じゃれ合うように絡む。 「蓮?」 「うん?」 「これから、忙しくなるな」  涼景は夜空を見上げた。蓮章はその横顔を見つめた。 「いや、面白くなる」  ふたりの歩む道は暗い。  しかし、目指す|星《ほし》がひとつ、地平線の上に強く輝き始めていた。 <完>

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