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つばくらめの夢(1)

【本編との接続】 本編の十年前の物語。 『第一部「星誕」』・外伝『狂戯を喰む』の後。 『第二部「紅葉」』前がおすすめです。 ⚠️作中には特に暴力的表現を含みます。苦手な方はご注意ください _____________________________  戴冠式からこちら、犀星と涼景が顔を合わせる頻度は格段に増えた。  犀星が正式に親王として周囲に認知され、警護されるべき対象となったことが、大きな理由だった。  しかし、それだけではないと、東雨は思っている。  職務上の問題で済むのなら、涼景自らが来る必要は無い。右近衛隊の筆頭指揮官であるのだから、頻繁に顔を出してもおかしくはないが、少なくとも毎晩のように、酒を飲みに来る必要は無いはずだ。  近衛隊というのは、そこまで暇なのだろうか。  東雨は怪しんだ。  東雨の疑問に、涼景は言い訳のように説明した。  近衛隊は、右と左のふたつの部隊がある。  このふたつが、月ごとに交代で、天輝殿の警備につく。  天輝殿には常駐の禁軍もいるが、より多くの人員が関わることで、異変に気づきやすくなるという。また、権力の一極集中を防ぐ意味もある。  涼景が、ここ最近、毎晩犀星の屋敷に現れるのは、現在、この当番から外れているためである。  来月は来られなくなるから今のうちに会っておく、と言う理由で、涼景は遠慮なく上がり込んだ。  本来であれば、犀星は宮中に屋敷を構えねばならない。しかし、様々な事情、特に犀星のその性格上の問題から、宮中は合わないと判断し、皇帝からの許可を得て、こうして市街の一角に住まいを設けていた。  もともと、ここは涼景の屋敷である。  家賃代わりだ、と言いながら、涼景は夕食を求めた。  犀星にはもともと人見知りの気質があり、馴染みが早い性格ではない。  だが、戴冠式を巡るあれこれ、毎日顔を合わせるという環境も重なって、さすがの犀星も、涼景の事は信用しつつあった。  関係の変化とは、必然的な要素によって起きるものである。  東雨は、料理や酒の支度に奔走しなければならなくなった。  幸いなことに、家のことには犀星も東雨同様に働いてくれた。歌仙にいた頃は、家事全般は皆が手分けをして行っていたという。  犀星の手際は慣れたものだが、料理に関しては少々雑である。不自由なく食べられれば良い、体に良ければ良い、味は飲み込める程度ならば良い、といった大雑把さが目立つ。  神経質な犀星が、食事に関してだけは非常におおらかだった。いや、むしろおおらかすぎた。庭の胡瓜を井戸水で洗い、その場で丸かじりをしている姿を見たときには、東雨は思わず頭を抑えて呻いたものだ。  涼景はたまに料理を持ち込んでくれるが、それは本当に気が向いた時だけで、たいていは犀星と東雨がもてなす形になる。ただし、酒だけは毎日欠かさず持参した。東雨が飲めないのはもちろんだが、犀星も戴冠式以来、匂いを嗅ぐだけでも胸がつかえるようになっていた。  当分、いらない。  酒瓶を眼にするだけで、犀星の顔色は悪くなった。  一時期、歌仙親王は、暁将軍の囲い者だという噂が飛び交った。幸いにも、二人の人柄が理解されるに従って、自然と悪意は消えていった。犀星の毅然とした佇まいと優秀な働きぶり、そして民に対する心遣いある態度は、確実に都に浸透していった。  みなが少しずつ、それぞれの立場から、犀星への期待を抱き始めていた。  夕食の後、犀星と涼景は決まって、犀星の部屋から、庭を眺める。涼景は酒、犀星は白茶を手に、とりとめのない話を重ねるのがならいになっていた。  二人は同郷の出身である。とはいえ、二人の話題に、故郷の事は、まず出なかった。東雨は聞き耳を立てていたが、互いの家族の話はしない。  彼らのもっぱらの話題は兵法であったり、軍の鍛え方、馬の育て方、君主論、農地の開拓計画から水害対策、税の配分や徴収方法、飢饉に備えた備蓄、戦時中のあれこれ、あらゆる武術、ときには医学など、東雨にはあまり興味のないことがらばかりだった。  遊びに来ているというよりも、政治目的の会談のような気さえしてくる。東雨には理解できない難しい言葉が飛び交った。犀星は確実に知識を蓄え、読んだ書物はすぐに覚え、あっという間に東雨の知識を抜いてしまった。悔しいような誇らしいような気持ちで、東雨はそんな若い主人を見守っていた。  二人とも一度語り始めると、冗談を言うこともなく、どこまでが本気かも知れない、きわどい会話を避けなかった。  犀星を警護するため、屋敷の外塀の向こうには、近衛兵が並んでいる。  気づかれはしまいかと、東雨はハラハラした。 「宝順ではダメだ」  涼景が剣呑なことを言い放ったときには、東雨は思わず飛び上がった。 「そうか」  恐ろしいことに、彼の主人も否定しない。これは本音なのかと、東雨はドキドキした。ちらりと犀星が振り返った。 「東雨、お前はどう思う?」 「どうって、何がですか?」  あからさまに東雨はたじろいだ。 「宝順が皇帝の器かどうか」 「そんな恐れ多いこと! 俺は何も言えません」  逃げるようにして部屋を飛び出していく東雨を、犀星は呼び止めることなく見送った。 「おまえも、わかってきたようだな」  涼景は手酌しながら、 「疑ってるのか?」 「あいつには悪いが、信用はしていない」  犀星は少し寂しそうに言った。東雨は素直で可愛らしい少年だと思う。決して悪気がないのもよくわかる。  だが、彼は宝順が用意した侍童の一人なのだ。高頼のこともある。東雨が、本人の意思とは関係なく、誰かに利用されている可能性は高い。涼景はじっと犀星を見た。 「まぁいい。おまえに任せておく。もしもの時は、俺が斬る」  その覚悟が涼景にはある。 「なあ」  東雨がいなくなったためか、犀星はわずかに緩んだ声で呟いた。  涼景には、犀星の警戒心を弱めてしまう魅力がある。 「皇帝をよく思わないお前が、どうして近衛などをしている?」 「そうだな」  涼景は、さらに杯を重ねた。 「俺の首には鎖がかけられている」 「その端を、宝順に握られているということか」 「まぁ、よくある話だ」 「他者の命を質に取られては、お前が動けるはずもないか」  犀星は涼景の性根の優しさを、理解しつつあった。よく今まで、あらゆる悪意が飛び交う宮中で生きてこられたものだと思うほど、涼景の心は暖かかった。  いや、そんな涼景だからこそ、気づいた者たちが、彼を助けてくれたのかもしれない。  徐々に闇に沈む庭に、高く細い月がかかっている。  遠く故郷の地で、あの人も同じ月を見ているだろうか。  犀星はふと、心を遠くへ飛ばした。  しっかりとした別れも交わせずに、心の半分を置き去りにしてきてしまった。少しでも近づきたくて、毎日筆をとる。それは、大切な人に向けての文であり、己の心を保つための手段でもあった。  寂しさが、幼さの残る横顔に宿る。  涼景はちら、とそれを見ると、盃を置いた。  庭に背を向け、犀星の足元にうやうやしく膝まずく。 「涼景?」  予想外のことに、犀星は首をかしげた。  涼景は、歌仙親王付きの近衛である。彼の行動はおかしなものではないが、改めてそのようなことをする性分とも思えなかった。また、酔ってふざけているようでもない。  涼景は黙って、眠るときにも手放さない刀を、鞘ごと腰から外した。犀星の前に差し出し、床に置く。そして、じっと、真剣な顔で犀星の目を見つめた。  二人の視線がしっかりと噛み合う。心が透けて見える。  涼景の表情には、若さと、何かに対する強い憧れがありありと浮かんでいた。普段の飄々とした態度とは打って変わり、涼景の心が、すべての鎧を脱ぎ捨て、そこに差し出されていた。 「もし、おまえが立つと言うなら、俺はどこまでもついていくぞ」  犀星は息を飲んだ。  自分に対する圧倒的なまでの信頼に、どれほど応えられるのか。恐れにも似た高揚感が込み上げた。生まれて初めて託された、大きな期待。この声に応えるため、自分は今よりもなお、強くあらねばならない。  犀星は、黙って涼景の眼差しを受け止め続けた。それは、清濁合わせ呑んできた将軍のものではない。熱っぽく、夢を語る若者の目だった。 「宝順を倒して、後に何が残る? 空いた皇座につく者が愚かならば、すべてが無益な流血だ」  涼景の声は、静かに犀星の魂を揺さぶった。正義感溢れる、薄い茶色の瞳はしっかりと犀星の顔を映していた。  幾千幾万の思いが互いの間を行き来する。二人の関係を根底から塗り替えるほどに、濃い沈黙。  犀星の中で、涼景を信じるか否か、最後の最後まで揺れていた迷いが、手のひらに落ちたひとひらの雪のように、音もなく溶けた。  風が、二人を同時に撫で、犀星の頬に垂れた柔らかい髪が揺れた。  涼景の口元が緩む。止まっていた時間が、動き出す。 「冗談だ」  涼景は、大きく体を伸ばした。 「酔った。寝る」  部屋の隅の牀に無遠慮に倒れ込む涼景を、犀星は何も言わずに見送った。  こちらに背中を向けている涼景は、無防備そのものだ。  犀星の足元には、涼景が腰から解いた刀が残されている。  今ならば、犀星の腕でもたやすく命を取れるだろう。  謀反を企てる将軍を斬るか、それとも彼を縛る鎖を斬るか。  その選択を、涼景は自分に託した。  それが、お前の心か。  都で唯一の理解者であり、これからの人生において親友と呼びたいと願った男の思いが、痛いほど伝わってくる。  涼景の刀を拾い上げ、その重みにうろたえる。  この俺を信じ、賭けてくれると……  涼景の静かな息を聞きながら、犀星は自分に向けられた想いの大きさに、体が震えた。   ・  燕涼景。字を仙水。南陵郡歌仙の出身である。  燕家はもともと賢者を輩出し、文官という立場で、宮中に仕える者が多かった。  涼景の父・燕広範も、また、儒学者として名を馳せた人物である。  しかし、時代は、内政よりも軍事が重んじられる時期を迎える。国境沿いの争いが絶えず、各地の諸侯も私兵を訓練して、戦に備えた。

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