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つばくらめの夢(2)
そんな中、広範は家族と共に歌仙の領地に戻り、静かな暮らしを選んだ。世を憂いつつ、病弱であった妻の身を思い、多忙な一線から身を引いた。
広範は、自分には果たせなかった大義を、幼い息子に望んだ。そして、わずか六歳の時、都の縁者を頼って、涼景を宮中に上がらせた。
涼景には、何が起きているのかわからなかった。
両親から引き離され、遠く都まで、籠に閉じ込められた。籠の中で、涼景はずっと泣いていた。何か、自分は悪いことをしたのだろうか。どうして、家を追い出されたのだろう。
何も理解出来ないまま、彼は都の雑踏の中に放り込まれた。
静かな歌仙とは違い、そこは別世界だった。人で溢れかえる道の隅を、隠れるようにしてうつむいて歩いた。
燕家の縁者の家とは名ばかり、都に居を構えているとはいえ、実際には借金と無職にあえいでいた。涼景を引き取れば、本家からの仕送りを期待できるから、と、泣きついた有様だった。
涼景は、家の将来を担うべく、都入りの翌日から、宮中の学問所へ連れて行かれた。
貴人たちの子どもが多く通うそこは、すでに、一つの社会が形成されていた。
子どもの立場は、親の官位によって決まる。
涼景が座らされたのは、末席だった。
師範がいる時は、みな大人しくしていたが、ひとたび子どもだけになれば、すぐに真実が明らかになる。子供の世界は、大人たちの模倣であり、更に、容赦がない。
「田舎から来た燕 ってのは、お前だろ?」
左相の甥にあたる少年が、真っ先に声をかけてきた。子どもたちの中でも、立場が強く、誰も逆らえない男子だった。
「知らないのか? ツバメは春に巣を作るために渡ってくるんだ。今は秋だ。季節もわからない、出来損ないのツバメだな!」
同じ年頃の知り合いなどいなかった涼景にとって、初めての子ども同士の会話が、この言葉だった。
「……ツバメじゃない」
涼景は立場の上下もわかっていなかったため、普通に言い返した。
「涼景だ」
「何言ってんだ? 燕家の生き恥だろ、おまえ。ツバメじゃないか」
一斉に、子どもたちが笑う。
可愛らしい少女までが、くすくすとこちらを見て笑っている。
涼景は座ったまま、背筋を伸ばして顔を上げ、両手の拳を膝の上で握った。
今まで、名前でしか、呼ばれたことがなかった。
『燕』という家を背負って生きていくのだということを、この時、彼は初めて意識した。
腹を決めると、涼景の態度は瞬時に変わった。
決して引かぬ胆力は、生まれながらにして備わっていた。
「確かに、燕は春に北上する渡鳥だ」
涼景の堂々とした話しぶりは、周囲の耳目を集めた。
「燕は、田畑の害虫を食糧とするため、農家からは益鳥として大切にされている。今は秋だが、このあたりには害虫が多すぎる。俺は、それを駆除しにきた」
生まれてこの方、大人の会話しか聞いたことがなく、また、農村の出身だったために自然と出た返答だった。
涼景の皮肉は難しく、同年代の子どもにはよくわからなかった。
仕掛けた張本人は意味もわからず、害虫扱いされたことにさえ気づかなかった。こいつは田舎訛りで、都の言葉も話せないのか、と重ねて笑った。
だが、中にはその真意に気づく者、そして、涼景の切り返しに感嘆する者がいたのも事実である。のちに、この燕問答が師範の耳に入り、涼景は都での上下関係や非礼を叱責されることになるのだが、同時に、涼景の利発さを示す出来事でもあった。
涼景への嫌がらせは、毎日のように続いた。
几案がひっくり返されていたり、毛氈の代わりに鳥の巣が置かれていたこともあった。道を歩けば、ツバメは南へ帰れ、としきりにはやし立てられた。
それでも、涼景は一向にめげず、泣き言ひとつ言わず、学問所へ通い続けた。
師範の話は一度で理解した。彼らは子どもたちにわかりやすく教えることはせず、常に小難しい言葉を用いた。わざと、簡単なことを、周りくどく話して聞かせた。
多くの子供達はそんな師範を、難しいことを知っている大人、として尊敬したが、涼景は逆だった。どんなに時間をかけて話をしたところで、相手に通じなければ、何の意味もないのではないか。自分なら、もっとわかりやすく、端的に説明できるのに。
そんなことを思いながら、師範の話を聞き流しつつ、黙々と書を読み、わからないことがあると、秘府へ行っては、自分で調べるようになった。幼い子どもが秘府に出入りしていれば、自然と目立ってしまう。あれはどこの子だ、と話題にのぼり、燕家の跡取りであることがわかると、官吏たちは笑い飛ばした。
衰退の一途を辿る燕家が本家の後継を預かった話は聞いていたが、所詮は悪あがきだろう、とたかを括っていたのである。
その中で、当時秘府の官吏長であった慈圓 が、涼景に目をつけた。
子どもが手に取るには、あまりに筋違いの書を読み耽っていたからだ。最初は、意味もわからず、ただ学問の真似事をしているのか、とも思ったが、慈圓は興味をそそられ、食いつくように木簡を読む涼景に近づいた。
「学問中に失礼をする。ここの長を務める、慈玄草という」
涼景は、ハッと顔を上げ、書物を閉じると、慣れない仕草で拝した。瞬時に、慈圓の人となりを見抜いた目だった。
「歌仙より参りました、燕涼景と申します」
「年齢は?」
「数え八歳になります」
慈圓は少々驚いた。確かに、事前の情報では、それくらいの年頃と聞いてはいたが、立ち居振る舞い、目の輝きに、常人とは違うものがある。幼くとも、君子の器であることを、慈圓は察した。
「字を持たぬゆえ、涼景と呼ばせていただこう」
慈圓はまるで、大人に接するように丁寧に話した。
「学問所の具合はどうだ? 師範は皆、優秀か?」
「いいえ」
涼景は、はっきりと否定した。
「優秀な師範はいらっしゃいます。しかし、そうではない方の方が多いです」
「面白いことを言う。それは、どこで見分けるのだ?」
慈圓は期待しつつ、涼景の返答を待った。
常日頃から考えていたようで、涼景はよどみなく答えた。
「まことに道理を理解していらっしゃる方は、子どもの私にもわかるように、ご説明くださいます。そうではない方は、ただ、書物を読み上げ、的外れな質問をし、家柄によって正誤をお決めになります」
慈圓は、腹の中でほくそ笑んだ。
こいつだ。俺が待っていたのは、こういう人材だ。
「学問所へは、もう、行かなくてよい」
慈圓は唇を緩めた。
涼景は、不安を浮かべた。自分が失礼なことを言ったために、出入りを禁止されるのか。
それを察して、慈圓は笑った。
「おまえのような、優秀なやつが行く所ではない。明日からは、ここへきて、好きなように学ぶといい」
「ですが、燕家は官位が低く、勝手なことは……」
「おまえの里親には、わしが直接、文を出そう。案ずるな」
慈圓は涼景を覗き込んで、片目をつむってみせた。
涼景は、都に来て初めて、人と話したような気がした。
自分を理解し、自分が理解できる人間と出会った。だが、手放しに喜べない心のわだかまりが、涼景の顔を曇らせた。
「どうした? わしが直接、見てやる。お前には才能がある。それとも、わしでは不満か?」
「いいえ、そうではありません」
「では、なんだ?」
「一つ、気になっていることがあるのです」
「言ってみよ」
慈圓は、まるですでに打ち解けた旧知であるかのように、涼景に問いかけた。
涼景はどう説明しようか、と一瞬考えてから、
「学問所で、私の隣の席が空席だったことです」
どういう意味か、と慈圓は考えたが、すぐに思い当たらなかった。
涼景は声を低めた。
「学問所の座席は、親の官位によって決められていました。しかし、私の左隣、一つ上の子供の席が、ずっと空いたままだったのです」
「その席の者が気になるのか?」
「はい……まだ会えぬその席の人は、私の生涯の友人になれたかもしれません。人との出会いは数奇なもの、と聞きます。私は、どうしても、その席の子に会いたいのです……なぜか、とても、気になっているのです……」
「それは、俺のことかな?」
滔々とした涼景の説明が終わるころ、ふっと書架の陰から、声がした。
振り返ると、黒っぽい装束をまとった、同じ年頃の少年が一人、自分を見ていた。
少年は、左右の目の色が違っていた。左の目が、銀狐の毛並みのように煌めいていた。
ああ、この人だ。
涼景は直感した。
左右異色の瞳と透けるように白い肌が印象的な、美少年だった。眉目秀麗とは、彼のためにある言葉かもしれない、と、涼景は思わず見惚れた。
それは、相手も同じだった。
涼景の顔を、驚いたように見つめながら、少年は涼景の強い眼差しに射抜かれた。薄い茶色の瞳は限りなく澄んで、人を魅了する力と、その秘めた可能性を存分に感じさせた。裏付けるように、彼の語った声と言葉には、強い意志と、自己を隠すところなく主張する精神力が溢れていた。
「お師匠」
美少年・遜蓮章は慈圓に向いた。
「共に競い合える相手は、生涯の友。俺にも、好機が巡ってきたようです」
「言いよるわ」
静かな秘府に、慈圓の豪快な笑い声が響いた。
涼景と、蓮章は、昼は共に慈圓の元で学んだ。
夜になると、涼景は都の里親のもとへ戻り、蓮章は慈圓の邸宅の離れに帰った。
ふたりはあっという間に打ち解け、互いに遠慮ない物言いで競い合った。時には、手が出る喧嘩もよくあった。それは境遇の違う二人が、互いを知るために必要な噛み合いのようで、慈圓はどこで止めるべきかと苦笑しながら、暖かくふたりを導いた。
蓮章は複雑な家庭事情を抱え、慈圓のもとに預けられていた。正しくは、慈圓が匿っていた、というほうが適切だろう。涼景とはまた違う形で、蓮章が家族から背負わされたものは重たかった。
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