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西相の曲(6)
「ここは命の水源なんだ。だから、この街から、俺は始める」
洲は明らかに、困惑していた。男たちも、どうして良いか分からず、立ち尽くしていた。
犀星の思いの吐露に、真っ先に微笑したのは、他でもない、慈圓だ。
現実的に考えて、花街は決して、犀星が言った通りの愛の溢れる理想郷ではない。そこには毒もあれば悪もある。犀星とて、そのことは百も承知だ。だが、それは宮中であろうと都であろうと、似たり寄ったりであった。
犀星が、この街を重要視する本当の理由は、洲に語らなかった別の場所にあった。
この地域は、北の川に一番近く、最も治水工事に着手しやすい環境にだった。
さらに、宮中の息がかかっておらず、勝手をしても、官吏たちに睨まれることもなかった。宮中に捨てられた場所だからこそ、犀星が拾っても文句を言う者はなかった。他で事を起こすより、まずは花街を先に行うのは、順序というものだった。
利点は他にもあった。花街は多くの都の民も出入りしていた。そこが整備され、環境の良さが伝われば、自然と都の民も自分達の住む地域に治水を望むようになる。都に犀星の事業を知らしめるための見本市でもあるのだ。
あらゆる可能性から、犀星はこの場所を選んでいた。
洲は、むぅ、と唸ったきり、地図を睨みつけていた。
「一つ、問題がある」
今までになく落ち着いた声で、洲が言った。
「街の性質上、ここは女の割合が高い。しかも、ほとんどが遊女だ。男も男娼は使えない。力仕事ができる奴らは、大抵、どこかの遊郭の用心棒で、人手が余っている訳ではない。都の知り合いや近隣の農村に手を回せば、それなりの数は集められるだろうが、外部から人を受け入れることになる。工事の間、そいつらを住まわせる土地は、ここにはない」
「それは、問題ない」
犀星は頷いた。
「ここは、何の街だ?」
「え?」
「宿泊できる店なら、いくらでもあるだろう?」
「確かに貸し宿はあるが、商売をしている訳で……」
「宿は宿だ。寝泊まりはできる」
「しかし、無償で労働者を泊めさせる宿なんて……」
「誰が無償だと言った?」
「……まさか!」
「そうだ。宿ごと、借り受ける。金を払ってな。それなら、不満はないだろう? それに、労働者には賃金を支払う。彼らが、他の店の客にもなる。金はこの街に落ちる。俺は損をするばかりで、懐に入る金はない」
「あんた……」
洲は息を殺し、恐ろしいものででもあるように犀星を見た。犀星の表情は変わらなかった。
「俺は、ここを変えたいだけだ。これで儲けるつもりはない」
洲は呆然としていた。そこには、先ほど突っかかってきた荒くれ者の気配はなかった。
「どうだ、力を貸してもらえるか、洲」
対等だ。
洲にはわかっていた。
犀星は決して、威圧的に進めるつもりはない。自分と目線を合わせ、話をしているだけだ。
治水工事の知識と技術、そして先行投資の金は犀星が出す。
自分達は、その計画に乗り、人手を集めて束ねていく。
悪い話ではない。むしろ、信じられないような好機であった。
洲は静かに声を低めた。
「歌仙さんよ。あんた、何を企んでいる?」
犀星は隠すつもりもないらしく、正直に答えた。
「俺が最終的にやりたいのは、この一帯の農地改革だ」
犀星は、にやりと笑って見せた。
「俺が育った歌仙は、そのほとんどが山林と農地だ。その全ては、水に支えられていた。俺の体には、河川の水が流れているんだ」
「……面白い!」
洲は、気に入った、と犀星の背中を叩いた。
「あんた、親王なんかやめちまえ。皇帝になりゃいい」
洲の大きな笑い声が、晴れて澄んだ花街の空に響いた。
犀星と慈圓が花街の門を出たのは、すっかり日が傾いた時分だった。
心地よい疲労と達成感で、二人は穏やかな表情を浮かべたまま、黙って街を後にした。
洲に案内され、花街の有力者の協力を取り付けることにも成功した。
犀星は大金を借りる保証として、成功のあかつきには、親王公認の名を店に出すことを提示した。一方、失敗した場合は、犀星自ら娼となることを約した。狂気の条件は、周りの誰をも絶句させた。
犀星には、十分な手応えと勝算があった。
早く五亨庵に戻って、留守を任せている東雨たちを安心させてやりたい。
二人の足取りは軽かった。
と、門を抜けた往来に、人だかりができていた。二人は顔を見合わせた。
高い女の怒鳴り声が、人山の中から聞こえてきた。
何か揉め事ならば、その場を素通りできないのが犀星の気性である。
慈圓は、事が大きくならないことを祈りながら、人だかりをかき分けていく犀星を追った。
「どうした?」
人の輪の中心に、都の辺境には似つかわしくない、華やかな装束の女が立っていた。その足元には、少女がきちんと足を折って座り、項垂れていた。
「歌仙様!」
振り返った女は、趙姫であった。
犀星の顔から感情が消えた。
一言も尋ねることすらせず、犀星は黙って辺りを見回した。
馬に引かせた帳車は艶やかな赤と橙の絹張で、細工を施した飾り紐が垂れ、その所々には佩玉や宝石が揺れていた。
堂々と地面に立つ趙姫は、五亨庵にいた時よりも、一層華やかで自信に満ち溢れ、民衆を視線を一身に集めていた。
黙り込んでいる趙姫に、犀星は顔を向けようともしなかった。
「何があったのです?」
仕方なく、慈圓が尋ねた。
趙姫は紅潮した顔で、まくし立てた。
「この娘がわたくしの帳車の前を横切りましたので、罰を与えているところですわ」
犀星は、砂利の上に砂埃にまみれて座っている娘を見た。腰をかがめて目を合わせると、それは明であった。
すでに趙姫の供の者たちに蹴られたらしく、明は髪や顔まで土で汚れ、額を擦りむいて赤く血が滲んでいた。趙姫の罰は公然と、容赦がなかった。
「仮にも公儀に名を連ねる者が、民に狼藉を働くなど何事ですかな」
慈圓が犀星の後ろから、趙姫をたしなめた。
犀星自身が叱責するより、慈圓に任せた方が、親王の名を汚さずに済むとの配慮だった。
「しかも、道は全ての民のもの。それを横切ったとて、その娘に咎はありませんぞ」
「邪魔をしただけではございませんわ」
趙姫は気丈に慈圓を睨みつけた。
慈圓が宮中の人脈に通じていること、父である左相の趙教と不仲であることは、趙姫も知っていた。
「おかげで、供が親王様への贈り物を取り落としてしまいました。これは、歌仙様への冒涜も同じことです」
「私への冒涜を働いているのは、あなたの方だ」
黙っているのも限界だったのだろう。犀星が、静かな、よく通る声で遮った。
成り行きを見守っていた都の老若男女たちは、両者の会話から、犀星の正体を知ってざわめいた。
明が、怯えた目で犀星を見上げた。泥で汚れたその顔に、幾筋も涙の跡があった。
犀星は早足で明によると、そのそばに片膝をついた。周囲からどよめきが上がった。
歌仙親王を知る者とて、親王自ら土に膝をつくなど、考えられないことであった。
明の唇の端に滲んでいた血を、犀星はそっと手を添え、自らの着物の袖で拭った。
「親王様……あたし……」
「もう、大丈夫だ」
犀星の囁きは明にしか聞こえなかった。彼女の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「まったく、とんだ災難ですわ」
趙姫が頭痛でもするかのように、額に手を当てた。
「こんないかがわしい所まで来たというのに……」
「いかがわしい、だと?」
犀星の眼差しに、ちらりと怒りが走った。そのまま、明を背にして立ち上がると、趙姫を見据えた。
趙姫は美しい眉を歪めた。
「歌仙様が、なにゆえ、このような場所に執着なさるのか。殿下のような方がお運びになる場所ではございません」
「あなたは、この街の価値を知らぬのに、どうしてそう、言い切れるのです?」
趙姫は口元を覆ったまま、
「花の街に、価値などございません」
明が、そばに立つ犀星の殺気を感じて、身を震わせた。
慈圓が素早く、犀星と趙姫の間に割って入った。
「貴姫様、ならば、なにゆえ、あなた様は価値なき場所にいらっしゃったのです?」
趙姫は妖艶に目を細めた。
「歌仙様がお出かけとお聞きし、労いの品をお届けに参りましたのですわ」
「ほう」
慈圓は、無言で犀星を押しとどめた。
「わしらの話を盗み聞きし、親王殿下の後をつけた上、殿下が目をおかけになった街に価値が無いとまでおっしゃる。挙句に、殿下の贔屓の|女性《にょしょう》に往来で恥をかかせるとは、どこが労いだとおっしゃられるのか、この老朴には、まこと、理解できぬことにござりまするな」
趙姫が明らかに不愉快を滲ませた目で、慈圓を見た。だが、彼女もこれ以上、五亨庵を敵に回す事が、犀星を手に入れるために得策ではないことを承知していた。
「わかりました。どうやら、わたくしにはやはり、下賤な方角は凶であったようです」
優雅に礼をすると、趙姫は裾を返して帳車に戻った。そのそばに、従者が一人、箱を捧げて近づいた。
「姫様、玲親王殿下への贈り物は、いかがなさいますか?」
その一言が、趙姫の逆鱗に触れた。彼女は乱暴に箱を払い落とした。土の上に朱塗りの箱が叩きつけられ、蓋が飛んで、美しい色の砂糖菓子が道に散らばった。
「土に堕としたものを、歌仙様に献上できるわけがないでしょう!」
一喝された従者が、その場に平伏する。
趙姫たちの行列が動き出すと、人々はざわめきながら道を開けた。
犀星の後ろに座り込んでいた明が、よろめいて立ち上がった。そのおぼつかない足元を支えるように、犀星はそっと手を貸した。
「明、おまえ、こんなに遠くまで、行商に来ているのか?」
「……うん」
明は俯いたまま、頷いた。
「花街はお得意さんなんです。みんな親切だし、私が作った花の飴、楽しみにしてくれるから」
「そうか」
犀星は明の体の土をほろってやりながら、
「おまえは、あの街が好きか?」
「はい」
パッと顔を上げて、明は思わず犀星に見とれた。
明が知る犀星は、いつも、五亨庵の奥で黙々と仕事をしていた。遠くから、景色の一部のように遠い存在。それを、こうして近くで見ると、その美しさに胸が高鳴った。
「綺麗……」
「うん?」
「……あ、あの……綺麗な、曲」
「曲?」
「はい……」
明は誤魔化すように犀星から目をそらして、地面に撒かれた菓子を見た。
「花街の人たち、綺麗な曲を聴かせてくれるんです。稽古中だからお代はいらないよ、って。それが、とても綺麗」
「そうか」
「だから、私、少しでもお礼をしたくて、花街でだけ、飴を売っているんです。花の形をした小さな甘いの。少ししか、作れないけれど」
犀星は、素朴な少女の姿を、目を細めて見守った。
誰識真価希
幽音出遠邦
願献清絶響
尽息在世時
(仙水)
誰か|識《し》らん 真価の|希《まれ》なるを
|幽音 《ゆうおん》|遠邦《えんぽう》より出づ
願わくは|献《けん》ぜん |清絶《せいぜつ》の響き
息尽き 世に在る時に
「いつか、親王様も、姐さんたちの琴、聞いてみてください。とても、優しい音がするから」
佇む犀星と民の周りに、淡い色に染められた花や葉、鳥を形取った菓子は、うっすらと砂にまみれて、小石のように散らばっていた。
「可愛そう……」
つぶやきながら、明は小さな命を拾い上げるように、手のひらに集め、土を払うと、箱の底にそっと並べていった。
慈圓がそれを手伝ってやりながら、首を傾げた。
「これを、どうする気だ?」
「お供えするよ」
「汚れた菓子を?」
「うん。大丈夫、うちの土地神様は怒らないよ。誰かが大切に作ってくれたものだもの」
犀星は、無意識に両手を握った。
もし、自分が恋をするなら、明のような娘なのだろう。
一瞬、彼の胸に吹き抜けた想いは甘く、そして、彼自身にも気付かぬ程に、儚かった。
「西相の曲」完
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