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第1話 ゴミ捨ても仕事のうち
等間隔に吊り下げられたシャンデリア。
床に敷かれているのは細やかな刺繍が施されたペルシャ絨毯で、歩くたびに雲の上を渡るような浮遊感がある。
ゲームごとに変わる広いホールには、世界中から来た富豪、あるいは観光客が溢れかえっていた。
ここはマカオにある高級カジノ「cloud nine」
煌びやかな館内はクラシックが絶えず流れており、まるで中世ヨーロッパの貴族にでもなったような気にさせる。
だが、プレイヤーが浮かべる上品な笑みの裏には、夜の海よりも昏く、鉛よりも重い感情が潜んでいる。
ベットした金が倍以上になる一攫千金への期待。
あるいは、すべて泡沫となって消えていくリスクへの不安や焦燥。
金銭よりも対戦相手を打ち負かしたいという闘争心。
ゲームに勝った者への羨望と嫉妬。
どんな思惑があれど、ギラつく目線は盤上を焦がすほどに熱い。
そんな灼熱の館内を美しく保つのが、清掃員として雇われた菊岡孝弘 の仕事だ。
ここ「cloud nine」は二十四時間営業、年中無休。
そのため、清掃作業は客の遊興心を削がないように素早く丁寧にするのが鉄則だ。
孝弘は館内の雰囲気に合わせた執事服のような制服を身に纏い、細心の注意を払いながら仕事をこなしていく。
(ずっと人間の相手するよりマシだけどさ。素早く丁寧に掃除するって難しいってのに、もっと愛想よくしろだとか背筋は伸ばせだとか、色々細けぇんだよ……)
孝弘の脳裏に浮かんだのは、上司である清掃課の課長だ。
スクエア型の銀縁眼鏡が几帳面を絵に描いたような顔にぴたりと嵌っていて、思い出しただけで顔を顰めたくなる。
雇用当初、カジノの清掃員の仕事は何たるかを叩き込んできた彼のやり方はスパルタを通り越して拷問に等しかった。
服装チェックから始まり、姿勢、話し方、自然な微笑み。
そして、効率よく丁寧に清掃する方法。
ひとつでも彼が気に入らないものがあれば、パワハラなんて言葉も逃げ出すほどの叱責が浴びせられる。
褒められたのは研修の最終日だけだ。
しかもそれは「まあ、いいでしょう」という微妙なもの。
(まあってなんだよ、まあって……)
あのサイボーグ野郎はもう少し人の心に寄り添った話し方を勉強するべきだ。
仕事はまさしく超人並みにできるのは、その仕事を見ていてわかる。
だが、無表情で温かみのないぶっきらぼうな話し方は、孝弘のように鋼の心臓を持っていなければパワハラと指摘されてもおかしくはない。
いや、実際、パワハラ紛いのことはされている。
契約以外の業務をさせられていることだ。
(なんで俺があんなことまでやんなきゃなんねぇんだ)
思い出して頭が痛くなってきた。
小さくため息をついてさりげなく頭を掻き、痛みを散らしていく。
それに引き寄せられるように、孝弘と同じ制服を着た同僚が近づいてきた。
同僚は微笑んでいるものの、目の奥に怯えが見える。
これは間違いなく「あんなこと」の知らせだ。
「ポーカーの部屋でトラブルです。応援お願いします」
両耳につけた耳栓。
それは、バッテリーも電子部品もないが、数種類のノイズキャウンセリング機能がついた優れもの。
カジノで必要な音だけを拾うように設定しているそれは、同僚の声をはっきりと孝弘に届けた。
孝弘をわざわざ呼びにきたということは、つまり面倒な客が暴れているということだ。
(くっそ面倒くせぇ……)
孝弘は唇を噛んで舌打ちしないよう自制し、代わりに小さく頷いた。
「了解。向かいます」
「お願いします」
僅かに会釈をして孝弘をトラブル現場に誘導する同僚は、心なしか足取りが軽い。
孝弘とは大違い。
羨ましいことだ。
厄介なトラブル――特に暴力沙汰――は適材適所で対応するのが一番。
というのも、孝弘は物心つくころから武闘派の父に総合格闘技を教え込まれている。
自慢じゃないが、プロ選手への勧誘もあったくらいだ。
そのことを同僚たちとの雑談でポロッと話してしまった翌日、上司から別の清掃業務を指示された。
(マジかよふざけんな!)
雇用条件にない仕事は突っぱねる。
そうしたいのは山々だが、孝弘には諸事情があり、ここを解雇されるわけにはいかない。
だから、渋々、仕方なく、新たな清掃業務を承諾するしかなかったのだ。
誠に不本意ながら、だが……。
思考に耽っていると、問題の客がいるポーカーの部屋に着いた。
優雅なカジノには相応しくない乱暴な言葉と怒鳴り声。
周りの客は遠巻きにトラブルの様子を窺っている。
その視線には、好奇と侮蔑がありありと見て取れた。
「こいつがイカサマしてたんだ! それがなければ俺が勝ってたんだよ!」
上品なスーツを着ているが、それに見合わないでっぷりと太った中年の男。
こいつと指差した若い女に殴りかかろうとして、カジノ従業員に押さえられている姿は無様そのもの。
赤い顔で唾を飛ばしている姿はなんとみっともないことか。
どうやらポーカーで大負けしたようだ。
よくある光景とは言いたくないが、しかし、実際残念なことによくある光景だ。
(お前が下手くそなだけなんだよ)
難癖をつけられた若い女は、マカオのカジノ界隈で知らない人はいないほどの博才の持ち主だ。
不正をしなくとも、彼女は延々とゲームに勝てる。
そんな彼女が、何故、たった一回のゲームに勝つためだけに、出入禁止条件の不正をするというのか。
彼女のゲームを見たいがためにマカオにくるギャンブラーもいるほどで、非公認のファンクラブもあるらしい。
ゲームを見学していた彼らは、醜い男を射殺さんばかりに睨みつけていた。
「お客さま。当館のディーラーは定期的に実施される動体視力の検査をパスしています。お客さまが不正を行えば、その者を即刻退館処分にしているはずです。当館のディーラーがゲームを続けたというなら、不正はなかったということです」
孝弘は朗々とマニュアルに記載されている文章を読み上げる。
柔らかな微笑みを浮かべてはいるが、客から見れば、きっとこの上なく恐ろしい笑顔になっていることだろう。
「そッそんなはずは……!」
「厳しい試験をパスした当館のディーラーが、初心者のあなたより劣ると?」
意識して落とした声のトーン。
孝弘とっておきの低い声は、唸り声にでも聞こえたのだろうか。
男は「ひぃいいいい!」と怯えた表情を浮かべ、そして、白目を剥いて失神した。
力なく床に寝そべる姿は、出荷される豚そのもの。
いや、それは豚に失礼かもしれない。
(はぁ? ったく、仕事増やしやがって。ふざけんなよクソデブハゲ!)
孝弘は床に突っ伏す汚物に手を伸ばした。
「それ、ください」
「はい。お願いします」
孝弘に男を引き渡したカジノ従業員たちは、一様にびっしょりと汗をかいている。
これで客前には出れない。
彼らは彼らの仕事をするため、一度更衣室に戻って身なりを整える必要がある。
だからこそ、ここからは孝弘だ。
百キロは余裕で超えているであろう男の体を米俵のように肩に担ぐと、人目のつかないルートを辿って従業員出入口へ。
そこから五分ほど歩いたところにある倉庫型のゴミ集積所。
そこには、このカジノ区画で出たゴミ――物だけでなく人も含む――を集積するところだ。
閉められたシャッターの前には、すでに無数の痣がある男が二人転がっていた。
こいつらも孝弘が担いでいる男と同様、別のカジノでトラブルを起こし、ここに捨てられたのだろう。
「よいせっ……と」
孝弘の仕事を増やした原因だ。
腹いせで男を地面に叩きつけつつ、ゴミ集積所の前に転がす。
それを咎める者は誰もいない。
なにせここは、暗黙の了解のもと設置されたゴミ集積所なのだから。
そこに捨てられた狼藉者がどうなるか、想像はなんとなくつくが、ただ雇われただけの孝弘は何も知らない。
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