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第2話 邪魔された至福の時間
ひと仕事終えた孝弘は足早に「cloud nine」に戻った。
地下にある荷物搬入口の、その隣にある喫煙所。
そこが孝弘の目的地だ。
ジャケットの内ポケットに隠し入れていた煙草の箱は潰れず綺麗なまま。
指触りの良いその表面を撫で、ぱかりと蓋を開ける。
薄紙を捲れば、ブラックとゴールドで高級感を演出した煙草が列を成していた。
ソブラニーは世界で一番歴史の古い紙煙草だ。
高級なそれは孝弘の身の丈に合わないが、どうせ吸うならこれにしろと指定してきたのは清掃課長である。
仕方なしに吸ってみた一度目。
贅沢を味わうにはもってこいだと思わせるには充分だった。
整然と並ぶ煙草を一本取り出し、ブランドロゴが描かれているゴールドのフィルターを咥えた。
やや硬めのそれは安定感がある。
誰かが置き忘れたジッポで火を点け、胸いっぱいに煙を吸い込む。
仄かに染み渡る甘さと香ばしさ。
オーソドックスな味わいだが、見た目が高級な分、孝弘の贅沢な時間を充実させてくれる。
(はぁ~~。ひと仕事終わったあとのこれ最高……)
細々と面倒な館内清掃も、トラブルを引き起こしたクソ豚野郎共の追い出しも、これがあるから耐えられているようなものだ。
終業後のみであるが、喫煙が許されてる職場でよかった。
ふぅ、と紫煙を吐き出し、再びソブラニーを味わう。
じわじわと手元に迫る火も、そこから崩れ落ちる寸前の灰も、すべてが孝弘の癒しだ。
「あ、いたいた。おっかえりぃ~~」
その贅沢な時間をぶち壊したのは、孝弘と同じ制服を着た男だった。
緩くパーマを当てたように見える黒髪は傷んだ気配がないため、本人の言うように天然なんだろう。
その両目に嵌った翡翠の瞳は、甘い顔立ちと相まって人を魅力する。
この男に女が寄ってくるのも道理と言えた。
馴れ馴れしく孝弘の肩にしなだれかかるのは、|楊炫《ヨウ シュェン》 。
この「cloud nine」で人気のディーラーだ。
「今日もお掃除お疲れさまぁ。かっこよかったよ~」
「うぜぇ。触んな」
せっかくのご褒美タイムが台無しだ。
炫が絡んでくると、自分の時間が泡のように消えていく。
何故、ゴミ捨てから戻ってきたあと、喫煙所に直行したのがわかったのだろうか。
煙草を咥えたまま器用に舌打ちし、すらりと伸びた炫の腕を叩き落とす。
が、孝弘の肩の上が定位置だと言わんばかりに再び腕が回され、体が密着した。
火が点いている煙草を気にしている様子はない。
まるで、孝弘に全幅の信頼を置いているかのようだ。
(いや、こいつはそう思わせるのが上手いだけだ)
炫に堕ちて、期待して、精神を狂わせた男を何人も見てきた。
だからこそ、僅かに緩んだ心臓の紐をきつく締め直す。
「冷たいなぁ。昨日も熱く愛を交わしたじゃん」
蛇のように絡みついている炫は、孝弘の耳元で濡れた吐息を漏らす。
それだけでなく、甘えるようにぴちゃりと水音を立てて孝弘の耳を舌で舐め上げた。
ほんの僅かな接触なのに、ぶわりと腹の奥から熱が溢れてくる。
何度も肌を重ね、馴染んだ炫の舌の熱と感触。
快感で潤んだ瞳。
興奮で赤くなった頬。
赤い所有印が散らばった豹のようにしなやかな肢体。
壊れたように白濁を散らす剛直。
孝弘のものを必死に咥え込む縦割れの後孔。
情欲をたくみに誘う嬌声。
脳裏に浮かんだ炫の淫らな姿を打ち消そうとしても、もう無理な話だった。
それでも、孝弘は炫の肩を掴んで引き剥がし、凶暴な欲に抗う。
「仕事中だろうが」
「俺はもう上がりだもん」
「俺が、だ」
「煙草吸ってサボってる人が何言ってんのぉ?」
「課長からは許可もらってんだよ」
珍しく正論を宣う男に腹が立って仕方ない。
孝弘は怒鳴り声の代わりに煙草の煙を吹きかけた。
だが、孝弘にひっついて喫煙所の常連になりつつある炫に効果はない。
それどころか逆効果だった。
「や、ば……粋な誘い方するもんだねぇ。久しぶりにドキドキしちゃった」
くつりと喉を鳴らしてニンマリと猫のように笑う炫には嫌な予感しかしない。
(嫌がらせのつもりだったんだが、そういや別の意味もあったな。クソッ……!)
煙草の煙を吹きかけるのは、夜の誘いを意味する。
迂闊なことをしてしまったと舌打ちをしても、時すでに遅し。
炫はペロリと見せつけるように赤い唇を舌で舐めた。
細められた翡翠の瞳には獰猛な欲が光っている。
強烈な色香が立ち昇る姿から目が離せない。
それどころか、甘い蜜を求める蜂のように手を伸ばしてしまいそうになる。
「ねぇ、いい?」
「何がだ。俺は煙草吸ってんだ。見りゃわかんだろ」
「じゃあタカヒロは煙草吸っててよ。俺はこっち咥えるからさぁ」
孝弘の名前を中国発音する同僚たちと一線を画すためか、炫は二人きりのときだけ、孝弘の名前を日本語の発音で呼びかけてくる。
名前を呼んで優越感を滲ませる炫の口元を見るたびに、孝弘の胸がふわりと柔らかい羽で撫でられるような心地になる。
鬱陶しくて、だけどそのくすぐったさは嫌じゃない。
そう感じる自分に、孝弘はいつも苛立っている。
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