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1:十代の頃、勢いで付けたペンネーム。あとから後悔しがち
一体なぜ、ランキングは中堅以下、コメント欄では毎回読者からブッ叩かれている俺が、ランキングトップの「余生」先生と面識があるのか。
その理由は、一年前の〝あの日〟まで遡る。
◇◆◇
「……あっつ」
高校三年生の夏、俺はとある大学のオープンキャンパスに来ていた。
「ひーー、やっぱ凄いなぁ」
ここは俺の憧れの大学。京明(けいめい)大学。
明治初期に創設された、日本でも有数の私立文系名門校だ。文学や哲学といった人文学の分野に秀で、数多くの文化人や思想家を世に送り出してきた。
「かっこいい……!」
広々としたキャンパス。煉瓦造りの重厚な校舎。
そしてすれ違う先輩たちの洗練された佇まい。まるで映画のセットみたいに眩しくて、格好良くて。高校生の俺は完全にお上りさん状態で目をキョロキョロさせながら歩いていた。
「爺ちゃんがいっつも楽しそうに大学時代のこと話すの、なんか分かったかも」
そう、俺の爺ちゃんも、ここ京明の文学部出身なのである。
——直樹!お前、大学に行くなら絶対に京明にしろ!あそこは本好きにとっては最高の場所だからな!
何十年も前の話なのに、爺ちゃんは大学時代の思い出を、まるで昨日のことのように語る。そのせいか、この大学は昔からどこか身近な存在だった。
「ここなら、爺ちゃんが学費出してくれるって言ってたし!それに、俺も、絶対に京明がいいし!」
そんな気持ちを胸に、オープンキャンパスという大義名分のもと、俺は憧れの大学を思う存分探検して回った。
そうやって、説明会や模擬授業をいくつか終える頃には、太陽も傾きはじめ、空はうっすら茜色に染まっていた。構内の「オープンキャンパス」の案内板も次々と片付けられ、喧騒が少しずつ静けさに変わっていくのがわかる。
「俺もそろそろ帰らなきゃ……」
講義棟からは、他の高校生たちの楽しそうな声が聞こえてくる。
けれど、俺はその輪に加わらず、裏門の方へとゆっくり歩き出した。名残惜しいような、まだ帰りたくないような、そんな気分のまま、駅へと続く緩やかな坂を一人で下っていく。
そして坂を下り切った交差点の角で――ふと、目に留まった。
「あれ、喫茶店?」
街路樹の影に少し隠れていたそれは、木製の控えめな看板と、うっすらと曇ったガラス窓が印象的な、小さな喫茶店だった。
【喫茶、ブルーマンデー】
入口の看板には、なんだか文芸誌の表紙みたいな書体で店名が掲げられていた。
「やば……!」
まるで昭和の文豪が通っていそうな、そんな重厚で鬱蒼とした雰囲気の建物が目の前に現れる。扉も、喫茶店と言うより、誰かの書斎の入口みたいに見えた。
俺は入口の前に立ち止まると、ほんの数秒迷い。そして、吸い寄せられるように、重たいガラス扉に手をかけた。
カラン、と小さなベルの音が鳴る。
「お、おじゃまします……」
入った瞬間、鼻を突くのはコーヒーの香りと、タバコの煙の混ざったにおい。冷房は弱めなのか、空気は少しこもっていて、木材の匂いと混ざって胸の奥まで沈んでいく。
「う、わ……!」
店内は凄く静かだった。
流れているのは、古いジャズ。客は全員、年配の男性ばかりだ。しかも、みんな雑誌じゃなくて本を読んでいる。文庫、ハードカバー、新書……ページをめくる音が空気をゆっくり揺らす。
壁という壁はすべて本棚で埋め尽くされていて、どこを見ても活字の背表紙がずらりと並んでいた。
まるでここだけ、昭和から時間が止まっているみたいだった。
やばい。この喫茶店の雰囲気、好きすぎる!!
「あれ?」
その一角に、ひとりだけ、若過ぎる客がいた。
黒い長袖のTシャツに、首からヘッドホン。細身の体を折り曲げるようにして、ノートパソコンに向かって指を動かしている。すごい勢いでキーボードを叩くその音だけが、店内に異質なリズムを刻んでいた。
(な、なんだ……?あの人)
グッと丸まった後ろ姿に見入っていると、隣から声が聞こえた。
「おや、若い子が来るなんて珍しいね」
「っ!」
振り返ると、白髪の優しそうな眼鏡の老紳士が立っていた。おそらくこの店のマスターだろう。にこにこと微笑んでいる。
「高校生?」
「あ、えっと……はい!」
「そういえば、今日は京明のオープンキャンパスの日だったか。京明志望?」
「はい!俺、京明が第一志望で……」
マスターまで活字の世界から抜け出してきたような、まさに〝文壇の生き写し〟みたいな姿。俺はもう心臓がパーンと音を立てて壊れそうだった。冷房の効いた店内のはずなのに、外にいるより体が熱い。
「ここ、すごく良いですね!!本もいっぱいあって!!」
「若い子にそう言ってもらえると嬉しいねぇ。本、好きなのかい?」
「はい!」
「へぇ。本好きの高校生か……。だったら」
本棚を見渡しながらそう言うと、マスターはますます嬉しそうに目尻を下げた。そして、ふと秘密を打ち明けるように、声をひそめて呟いた。
「実は、私の孫は小説家をやっていてね。最近、本を出したんだ」
「えっ、小説家……す、すごい!あの、何て本ですか!?」
予想外すぎる言葉に、思わず声が大きくなる。その瞬間、店の奥から絶え間なく響いていたキーボードの音がピタリと止まった。
「爺ちゃん、余計なこと言うな」
「おや、孫自慢はダメだったかな?」
「……ダメに決まってんだろ」
顔も上げずにそう言ったのは、店の奥で体を丸めてパソコンに向かっていた〝彼〟だった。その声はどこか刺々しくて、とりつく島もない。まるで、断崖絶壁みたいな声だ。
そして、次の瞬間。その矛先は俺に向けられた。
「……あんたも、外で余計な事言うなよ」
「えっ、あっ、はい……!」
「あと、声。うるさい。迷惑」
「す、すみません!」
ピシャリと言われた俺は、思わず背筋を伸ばし、とっさに頭を下げた。
そのまま、下げた頭の隙間からそっと声の方を見上げると、彼がこちらを一瞥するように視線を寄越した。
(う、わ……!)
長い前髪と襟足が垂れ、ひょろっとした体を椅子に預けるように沈めた姿。気だるげな鋭い目つきが印象的だったけれど、何より目を引いたのは、その――驚くほど整った顔立ちだった。
(な、なんか……凄い。この人)
見た感じ、多分年下だ。
けれど、そんな年齢差を感じさせないほどの、圧倒的な威厳があった。さっきの「小説家なんだよ」というマスターの言葉が、耳の奥で反芻する。
「……小説家」
それは、文字を操り、何もない空間に新たな世界をつくり出す人。
生きるのに絶対必要ってわけでもないのに、それでもずっと、昔から俺が惹かれてきた職業だ。だって、俺の人生の大半の時間は物語で構成されている。
「ごめんね。気難しい子なんだよ」
「あ、いえ」
再び店内にキーボードの音が響き渡り始めた頃、マスターが俺の肩を優しくたたいた。
そして、彼がこちらを見ていないのを確認すると、まるで悪戯っ子のような顔でソッと耳打ちしてきた。
「あの子のペンネームね〝余生〟っていうんだ」
「よせい?」
「そう、若いのに変な名前だろう?」
確かに。若いのに妙に老成したペンネームだ。
俺は、再び彼の丸くなった背中を見つめた。でも、何故だろうか。その後ろ姿を見ていると、これ以上ないくらい、その名前がしっくりきている気もした。
「年寄にはよく分からないけど、ネットで小説がたくさん掲載されてるところではいつも一位だって言ってたよ」
「へぇ、そうなんですね。すごい」
余生、先生。
俺はその名前を、口の中でそっと転がしてみた。
そして、なぜだか強く惹かれるその響きに、マスターの優しげな瞳をまっすぐ受け止めながら、真剣な声で言った。
「帰ったら読んでみます。絶対に」
思わず背筋が伸びる。俺はまるで、何か神聖な誓いを立てるような気持ちでそう口にしていた。
「ありがとう。君は、来年は京明生になる予定なんだよね?」
「はい。来年、絶対そうなれるように……頑張ります」
「待ってるよ。もし京明に入れたら、また来なさい」
マスターはにこにこと笑いながら、俺の肩をポンと励ますように叩いた。
「もしよかったら、バイトに来てくれると嬉しいね」
「えっ、ほんとですか……?」
「ああ。文学の香りがする子は、うちの店と相性がいいからね」
「っっ!」
あーーーっ!なんて美しい採用理由!?文学の香りがするから、って……もう心に金箔貼られた気分なんですけど!
今この瞬間、俺の中での京明への志望理由が完全に更新された。
「京明……死んでも、受かってやる」
俺は京明生になって、絶対にこの店でバイトをするのだ。
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