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第3話

 春の夜の通りは人であふれ、様々な車が行き交っていた。  彼がこのコンビニで働いていることが分かったから、また今度来ればいい。  白崎はそう思った。   「よっ」  隣から声がして、白崎は我に返った。声のする方に顔を向ける。見なければよかった、見た瞬間、手に持っていたレモンCを落としてしまい、声の主の足元まで転がった。  ――あの、配達員、いや、店員さんだ!  店員は腰をかがめてレモンCを拾い上げた。白崎のそばまで来て、「君、いつもそんなに驚きやすいの?」と呆れたように言った。  白崎は店員の手にあるレモンCをぼんやりと見つめていた。頭が真っ白になった。 「お〜い?」店員がレモンCを目の前でひらひらさせる。反応がないので、ひんやりとしたペットボトルを白崎の頬に当ててきた。熱を持った頬に冷たさがじんわり広がって、びくっと後ろにのけぞった。  夜の街灯に照らされて、彼の髪は少し乱れたオレンジ色の短髪。細い眉、つり気味の一重まぶた、下半分の顔は、見覚えがありすぎるくらい見覚えがある。  そして、あの香水の匂い――こんなにも近い距離で、夢でも見てるのか。 「こ、こんにちは……」  訳も分からず、とっさに出てきた言葉は、それだけだった。  店員は手を引っ込め、少し戸惑った表情で「こんにちは」と返した。  奇妙な沈黙が流れた。「こんにちは」って、こんなに会話が止まる言葉だったっけ。手持ち無沙汰で焦るばかりだった。  店員は無表情なままだが、「なんか、可愛いヤツだな」と思った。手に持ったレモンCを差し出し、「おれ、黒川颯馬っす」と名乗った。  ――そういう名前なんだ。  白崎は緊張した喉を鳴らして、顔を上げて言った。 「僕は――」 「白崎悠」  白崎は口をぽかんと開けたまま動けなかった。黒川は笑いながら、「だろう?」と言った。  白崎は下を向いてレモンCを受け取り、大きく頷いた。整った前髪がふわりと揺れた。 「まさか、覚えてくれるとはね」  黒川はポケットに手を突っ込みながら、また赤くなった白崎の顔を見て、体のどこかがくすぐったかった。 「黒川さんだって、覚えてるじゃないですか……」 「毎週、やたら買い物してたやつだろう?」  黒川はからかうように言った。白崎は目をそらして、それ以上彼の顔を見ないようにした。 「…だって、外出したくなかったから……」 「じゃあ、今日はなんで外出?」  黒川は白崎に近づいて、顔の近くでふっと匂いを嗅いた。「お酒、飲んでるね」  白崎はひょいっと一歩、隣に飛び退いた。今のはズルすぎた。顔を隠しながら、「今日は…事情があったんです」と言った。 「ふーん?」その反応が黒川は、気に入った。びくびくしたウサギみたいだ。彼は一歩近づいて、「どんな事情?教えてよ」と尋ねた。  ――言えるわけない、だって原因は合コンなんだから。白崎は歯を食いしばり、「教えません」と答えた。 「ふーん、ならいいや」  そう言って、黒川はくるっと背を向け、「帰るぞ」と歩き出した。  白崎は少し驚いて時計を見た。確かにもう遅い、早くしないと終電を逃してしまう。彼も歩き出し、駅に向かった。  微妙な距離感のまま歩いていたが、黒川も同じ方向へ向かっているようだった。まぁ、たまたま同じ方向かもしれません。駅に着いたら、きっと別れるだろう。  そう思っていたのに、今度は黒川も同じ電車に乗ってきた。  車内は空いていて、黒川は空いている席を見つけて「座りなよ」と言った。  白崎は少し緊張だが、言われた通りに座った。  さっきから頭がどんどん重くなってきていて、なんで今日に限ってあんなに飲んだのか、自分でも分からない。  座ると、電車の揺れが心地よくて眠気が襲ってきた。でも、寝ちゃだめだ。白崎は気を張って、向かいの窓に映る自分と黒川の姿を見ながら、尋ねた。 「黒川さんも、こっちの方向なんですか?」 「いや、違う」 「……え?」  白崎は思わず隣を見る。目を閉じていた黒川に驚いて、「じゃあ、なんで……?」  黒川は片目だけ開けて、だるそうに言った。「送ってくよ」 「……お、おくってくれる?」  白崎は目を丸くした。今の今まで、そんな年でもないのに、送られるなんて思ってもみなかった。 「酔っ払ってるし、迷子になりそうだったからな」  黒川は手を伸ばして、白崎の頭をくしゃっと撫でた。「何回も君ん家、インタホーン押してるからさ、安心しなよ」  そして、自分の肩をぽんぽんと指差して、「寝てもいいけど?おれの肩、限定一席だぞ」と言った。 「……結構です」  白崎は視線を逸らし、車両の端を見つめた。こんなに優しくされる理由が分からない。まだ知り合って1時間も経ってないのに……  もしかして、黒川さんも自分のこと……?  白崎はこっそり自分の腕をギュッとつねる。最近、自分、どうしちゃったんだろう。好きとか嫌いとか、そんなことばっかり考えて、バカみたいだ。  電車は街を抜け、窓の外は賑やかな街の光から、ぽつんぽつんと家の明かりに変わっていった。あの人が隣にいて、浅く静かな呼吸をしている。今が、とても心地よかった。 「着いたよ」  黒川が先に立ち上がって、電車の扉へ歩いていく。白崎も慌てて後を追って、「わかってます、言われなくても」とボソボソ言った。  夜の住宅街は静かで、二人の足音だけが響いていた。白崎が黒川の隣に並んだとき、黒川が聞いた。 「白崎って、何歳?」 「……23です」 「おれも、23」  黒川はふっと笑った。 「じゃあ…同い年」  白崎の胸に、嬉しい感情がふわりと湧いた。 「奇遇だな」  黒川がそう言って足を止めると、白崎も立ち止まった。目の前には、自分の住んでいるマンシィンがあって、明るいロビーの灯りが見えた。家に着いた。  ――じゃあ、ここでお別れだろうか。もっと話したいのに。白崎は階段の前で、しばらく動けなかった。  黒川は手を振って、「バイバイ」とだけ言った。  ――ほんとに、送ってくれただけ? 「また……黒川さんに、会えますか?」  白崎はその手を見つめ、よくわからない勢いで声を出した。  黒川はその気持ちに気づいたらしく、にやっと笑って、「君、なんでそんなにおれのこと好きなの?」とからかうように言った。 「だ、誰が好きだって言いましたかっ!」  白崎の顔は真っ赤になり、立ちくらみしそうになった。 「うーん…じゃあさ――」  黒川は自分の頬を指さして言った。 「ここにチューしてくれたら、会ってあげるよ?」 「……っ!」  白崎は「こいつ、調子に乗ってる」と思った。でも、拳をぎゅっと握って――キスくらい、いいじゃないか。頬だし。どうせ……  ――どうせ、こうすればまた会えるんだから。  でも、現実は想像を上回った。彼は黒川の洞察力を甘く見ていた。キスしようとした瞬間、黒川はすっと顔を引いて、白崎は空振りだった。  その驚いた顔を見て、黒川は満足そうに笑った。  そして、白崎の丸い頭をぽんぽんと撫でながら、「おやすみ、バカ」と言って背を向けた。  そのまま去ろうとして、ふと振り返ってこう言った。 「颯馬って呼んでいいよ。君の電話番号、知ってるから、LIN0追加しとくよ」  そう言って、白崎の前にかっこいい背中を見せつつ、春風の中に消えていった。 「業務違反じゃん……」  そう呟いたが、白崎の頬がほんのりゆるんでいた。

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