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第5話

 可笑しすぎる。  だって黒川って人が、こうして自分ちの前に立ってるなんて、思いもしなかった。白崎は深く息を吸い、自分のバッグからカードキーを取り出してドアを開けた。  黒川の手がドア枠に伸び、白崎より先に押し開ける。「お邪魔します」と言いながら靴を脱ぎ、玄関に入っていった。 「……なんでそんなに急いでんの」  白崎が呆れ気味に。 「外からじゃ、中の様子わかんなかったからさ」  照明つけながら、黒川が返した。  彼はまっすぐ廊下を進み、リビングに入る。部屋の隅に積まれた空き段ボールを見て、満足そうに笑った。まるで「やっぱりな」と言いたげに。  白崎はその意味がわかっていた。その空き段ボールは、結局一度もちゃんと片付けていないのだ。彼はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けようとしたところで、黒川が声をかけてきた。 「酒、ある?」 「……ない」  さっき買った麦茶と残り物を見て、白崎は首を横に振った。 「だろうな。君、弱そうだもん」  黒川はつまらなさそうに言いながら、ソファにどかっと腰を下ろした。一日分の疲れがそこに溜まっていたかのように。 「……飲みたいなら、買ってくるけど」  白崎は言った。社会人って、仕事終わりのビールが一番うまいんだろうなって、思ったから。 「それよりさ、山下くんから“レポートまだ?”ってLIN0来てたの、忘れてないよね?」  黒川はスマホを取り出して、白崎の目の前でちらつかせる。  そういえば……と白崎はスマホのカレンダーを開いた。締切は15日の午後……ってことは、今日って――14日……!?  その場で固まる白崎を見て、黒川が冗談めかして言った。 「まさか、締切は明日じゃないよね?」  顔が一気に青ざめる。  せっかく黒川を初めて家に呼んだのに、これから報告書書かなきゃとか……最悪。  白崎はソファ前のテーブルにノートパソコンを置いて、申し訳なさそうに「ごめん」と呟いた。  黒川が立ち上がる。帰るのかと思いきや、白崎の頭を軽く撫でて「コーヒー淹れてくるね」とキッチンへ向かう。まだ呆然としている白崎に振り返りざまに言った。 「はよ書き始めなよ、もう一時過ぎてるぜ」  白崎はおずおずと床に座り、ノートパソコンを開いてカタカタとタイピングを始めた。  キッチンから漂ってくるコーヒーの香りが、彼の目頭をじんわり熱くする。  ……この人、どうしてこんなに優しいんだろう。  黒川は黙ってコーヒーをテーブルに置き、後ろのソファに戻ってスマホをいじり始めた。  時間が過ぎていく中、白崎のレポートもどんどん進んだ。黒川は後ろで何度も体勢を変えながら、それでもずっとそこにいてくれた。  三時を過ぎた頃、ふと後ろの気配が消えた気がして振り返ると、黒川はソファに寝転んで、すやすやと眠っていた。  白崎は身体を伸ばし、ソファーの横から掛け毛布を取って、黒川にそっと掛けた。  ぐっすり眠っている黒川の顔を見て、白崎は思う。  仕事で、疲れてるのに……好きなビールも飲めずに、ただ傍にいてくれた。  この人のことは、やっぱり――  そっと手を伸ばし、黒川の髪先に触れる。ワックスで固められた髪は少しゴワついていた。その触感が、胸の奥をくすぐるように通り抜けていく。  ……もしかして、これが「好き」ってことなのかな。  白崎はそっと手を引っ込めて、パソコンの光に目を戻す。  ――今度から、ビールくらいは用意しておこう。  黒川の寝息を背中で感じながら、再びタイピングを始めた。  黒川が目を覚ましたのは、電話のバイブ音だった。  ソファの下からスマホを引っ張り出すと、時刻は朝の9時半。相手はコンビニの店長だった。  寝ぼけた頭を掻きながら、足を動かそうとした瞬間――  ずっしりと重みがある。  視線を下げると、白崎が自分の膝に頭をもたせたまま、ぐっすりと寝ていた。  痛む背中をさすりながら、黒川はゆっくりと身を起こす。微かな動きに合わせて、白崎の頭が自分の膝の上でくすぐるように揺れた。  この寝顔を見た瞬間、黒川の胸に「可愛いなぁ」と愛しさが溢れた。まるで小動物みたいだ。  彼はそっと白崎のサラサラした髪に手を添えた。  朝の光がカーテン越しに差し込み、白崎のまつげが微かに揺れる。机のパソコン画面には、レポートのラストに白崎の名前があった。どうやらちゃんと完成したようだ。  電話に出て「すみません、今日はお休みもらいます」と一言告げて、すぐに切った。  黒川の声に反応して、白崎はもぞもぞと目をこすりながら「……おはよう」。その直後、黒川の手が彼の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。 「……なにすんの」  黒川の手を払いながら、寝起きの目で睨んでくる。  黒川はそのまま身を乗り出し、白崎の頬をそっと手で包み込み、顔を持ち上げて言った。 「お誕生日おめでとうって言ってくれない?」  目の前に、白崎の瞳がぱちくりと見開かれ、その瞳に自分の姿が映っている。  ――今日って、黒川の誕生日だったんだ。  何も用意してなかったどころか、レポート出来るまで待たせただけ。申し訳なさで胸がぎゅっとなる。 「……言えない?」  黒川の指が白布の顎を軽くつつきながら、からかうように言った。  黒川の口元が微かに上がるのを見て、白崎は思い出す。インタホーンの映像に映っていた、あの横顔と薄い唇が今、こんなに近くにある。  ――もう、迷う必要なんてないだろう。  白崎は力の入らない腕を伸ばし、黒川のパーカーの紐をぐいと引いて唇を合わせた。  唇の外は少し乾いていて、中は温かく濡れていた。  ――キスって、こういう感じなんだ。  鼻先に漂うのは、黒川のいつもの香水の匂い。ぎこちないながらも、白崎は小説で見たようにそっと舌を伸ばしてみる。  黒川は慣れているのか、すぐに舌を絡めてきた。  静かな午前、耳元に響くのは、水音のようなキスの音。  白崎の身体は、溶けそうなほどふわふわとしていた。  呼吸が苦しくなった頃、黒川が唇を離す。  赤く染まった白崎の唇を見て、黒川はそっと指で口元をなぞった。 「ねぇ、そんなにおれのこと、好き?」 「……誕生日、おめでとう」  白崎は顔を背けた。今の自分の顔が全部見透かされてる気がして、ただそう呟いた。

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