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5 ジェラルドの事情(ジェラルド視点)
最初は、目が合ったから話しかけただけだ。見るからに良家の子息って身なりの、これまで見たこともないような美少年が、心細そうにこちらを見ていた。そしたらなんでか、思わず話しかけてしまったんだ。
正直、イリスタ学園なんか、入らなくてもよかったんだ。うちの家は平民にしたって裕福じゃないし、俺が「学校へ行きたい」なんて言い出したら、我が家はさらに困窮する。許されない恋の果てに駆け落ちしたのだという両親は、まともな財産を持っていない。詳しくは知らないけれど、母の実家はそれなりの身分なんだとか。
勉強は、好きだ。インテリ崩れのじいさんが近所に住んでいて、そこでいろんなことを教えてもらえて、満足だった。その辺りのガキにしては珍しく、読み書きだってできたし。
なのにそのじいさんは、俺が十五になる年の夏に騒動を起こした。ジェラルドは絶対に受かるからイリスタを受けろと、家の前でわめいたんだ。機会の損失だとか、時間の不可逆性とか、難しいことを並び立てて。
このじいさんが怖かったのかは知らないけど、親は簡単に言いくるめられた。イリスタ学園は、このじいさんがどうしても受からなかった名門中の名門で、入ってくるのは貴族の子弟ばかり。平民で入学した者は、明るい将来を約束されるんだとか。
試験を受けるだけ受けてこい、と言われて、なけなしの金で受けた。幸いにも首席入学だったから、無料で学校へ通うことができる。その上、マクソンという貴族が、首席合格の俺を養子として迎え入れたいと申し入れてきた。会ってみたら、そう悪い人でもなさそうだったから、安心した。
俺からの収入はなくなるけど、男ひとりの生活費分、家の金は浮く。それならいいか、と思って、家を出て養子に入った。
ずっと苦しかった。家は貧乏で、子だくさんで、俺は一番上の子ども。それから、とんでもなく頭がいいらしい。さらに悪いことに、平民には珍しいアルファだった。この世界には男女に加えてアルファ、ベータ、オメガという性別の概念がある。ベータに特筆すべき特徴はない。アルファは男性としての強い生殖能力を持つ。オメガは女性としての強い生殖能力を持つ。人口としてはベータ、アルファ、オメガの順に多い。とにかく、オメガは希少な性別だ。加えて、数ヶ月に一度「発情期」の発作を起こす。アルファはその魅力に抗えない。
そしてアルファは優秀で、オメガは美しいだけでいい、という強烈な社会通念があった。たかが性機能に、そんな大きなものをかぶせるなよ。
それで俺はアルファだから、発情期のオメガがいたら、その性的魅力に抗えず襲ってしまうらしい。ふざけないでくれと思う。周りも「オメガに気をつけろよ」と笑うけど、それは俺にもオメガの人たちにも失礼どころの話じゃない。オメガたちだって、好きで発情期になるわけじゃない。俺だって好きで発情するわけじゃない。
俺がオメガと強い結びつきを持てることを、いろいろな人にうらやましがられた。オメガは美しく、淫らで、男にとって最高の伴侶になるから。あのじいさんも、「私はアルファだからオメガと結ばれるべきだった」とか、未練がましく愚痴を言うときがあった。
だけどそもそも、俺は好きな子と結ばれたい。その相手が「オメガ」という生き物と決めつけられているのが気持ち悪い。
つまり、これだけ長々と考え込んでしまうくらい、俺はオメガという性別の人々に、複雑な思いを持っている。
だから美少年の首に、無骨なネックガードがはまっているのを見つけて、どうすればいいのか分からなかった。
彼はエリスと名乗り、握手を求めてきた。指先まで華奢で綺麗。さらに、美しく洗練された仕草だと、俺にも分かった。相当育ちがいいんだろう。
首元には、一般入試組が着けさせられる、平民の烙印みたいなリボンがひらめいている。オメガで一般入試組なんて、珍しい。うちの子はオメガだから学はいらない、と教育を受けさせないのも、よく聞く話なのに。上流階級の方が、その風潮はより強いと聞いている。
一緒に入学式へ出よう、と言われて、断る理由があったのは幸いだった。俺は粛々と行事をこなした。なのに戻ってきたら、エリスがいたから驚いた。同じクラスらしい。
となれば、さっき知り合ったのに、無視するのも違う。声をかけると、彼は不機嫌そうに顔を歪めた。俺、何かしたっけ。考え込む俺を置いて、彼は俺の成績について尋ねてきた。さらに自分は次席入学だと言って、俺の反応なんかおかまいなしに宣言する。
「次のテストでは、絶対に僕が勝つ。いつまでも、きみの天下とは思わないことだ」
しん、と周りが静まり返った。何を言っているんだ、こいつは。周りがドン引きしたことに気づいたのか、分厚い眼鏡の奥で、かわいらしい大きな瞳がきょどきょどと揺れる。
俺はといえば、笑ってもいられない。
こいつは俺の生い立ちを知らない。俺が貧しい平民出身のアルファで、それなりの苦労を積んできたことを知らない。
綺麗なものだけ見てきたみたいな澄んだ瞳を、真正面から見つめた。
「エリスは、俺に勝ちたいんだ? テストなんかで?」
テストなんて、ただの数字だ。俺の能力をある程度は証明してくれるけど、人格のことは全然見てくれない、冷たいデータ。
なのにエリスは胸を張って、挑発的な目で俺を見る。つやつやとした唇が、きゅっと締まった。
「……テストなんかって、随分と余裕だな」
どうやら、エリスにとって、テストはただの数字ではないらしい。
この、なんにも苦労してなさそうな綺麗な子にとって、ほとんど初対面の俺にわざわざ無礼を働いてまで、宣言したかったことらしい。
「エリスって、面白い奴だな」
するりと言葉が出た。
オメガで、一般入試組で、テストなんかに執念を燃やす。面白くて、変。いたいけな紅色の頬をますます赤くして、エリスは惚けた顔をした。
その後、彼には「学年一位」というあだ名がついた。たしかに、あんなかわいい見た目で、あんな強烈な言動をしていたら、面白いもんな。
そしてどうやらエリスは、とんでもない高位貴族の息子らしい。彼を取り巻く人たちの言動から察するに、この学年に通う貴族の子息たちの中で、彼よりも家格が上の人間はいない。それに「将来の相手」候補として持ち上げられているけど、本人はまったくそれに気づいていないようだ。
貴族でオメガなのに、一般入試組。何も分からない。面白すぎる。そして本当にテストの順位以外、こいつには何も見えていない。
他にもいろいろ。勉強はちゃんとできるし、授業態度はすこぶる真面目。先生の言葉でくるくる変わる表情から、多分本当に勉強が好きなんだろうことは分かる。
あと、体力が壊滅的にない。運動前に身体を温めるくらいの持久走で、死にそうになっていた。
とはいえ、絶世の美少年が、顔を真っ赤にして、汗みずくだ。ふらふら走っている姿は、ちょっとアレだった。
俺は内心どきどきしたし、クラスの何人かは顔を真っ赤にして見入っていた。誰かが叫ぶ。
「おい、学年一位! がんばれよ!」
下卑た声に、嫌な気分になった。少なくとも、エリスは一生懸命走っている。茶化した奴はにやにや笑って、周りと何か話していた。
「がんばれ!」
俺も声をあげて応援する。エリスの身振りに、少し生気が戻った。そうしてやっと走り終えたけど、すぐその場に倒れ込んでしまった。身もだえする様子がどうにもちょっと、いけないことを連想させる。見かねて立ち上がり、タオルをかけてやった。
「大丈夫?」
のろのろと、エリスが顔をあげる。どき、と心臓が跳ねた。眼鏡越しでない瞳はますます大きくて、綺麗な夏の空の色だった。額に細いプラチナブロンドの髪が貼り付いて、色っぽい。頬は真っ赤に色づいて、流れる汗が伝って、濡れていて、すごく……。
エリスは息も絶え絶えに「大丈夫」と言っていたけど、喘ぎながら言わないでほしい。周りも何かひそひそ言っているし。俺がにらんだら黙ったからいいけど。
その後の球技に、エリスは不参加だった。授業終わりに顔を見にいくと、まだ足ががくがくしているみたいで、危なっかしい。それをにやついた笑みの男子が狙っていたから、「エリス」と声をかけて並んだ。
「フラフラしてるけど、大丈夫か?」
「ん……」
まだぼんやりしているみたいだ。彼はそれでも、視線をうろうろ揺らしつつ、俺を見上げた。すん、と鼻を鳴らす。
「きみ、香水でもつけてる?」
「……つけてないよ」
笑ってごまかすけど、ひやりとした。エリスにはアルファとばれたくなかった。もしバレて、万が一エリスが突っかかってこなくなったら、寂しい気がする。対等な今が居心地いいのに。
どうして俺は、こんなに、こいつが気になるんだろう。
そんな気持ちも、無神経な男子のせいで台無しだ。エリスはといえば、きゅうと目を細めて俺を見上げる。ちょっと顔がくしゃっとしてかわいい。
「タオル、やっぱり、洗濯して返す」
改めて言いだされたら、断る理由はない。俺は大人しくタオルを渡した。
「……ジェラルド。僕がオメガだって、分かってるよね」
ぎくりと固まる。不純な気持ちを見透かされた気がした。エリスはげっそりした顔のまま、改めて俺に言う。
「タオル、洗って返すね」
「……気遣い、ありがたいよ」
そうでなければ、俺はただの変態だ。
とにかくエリスは、俺を変に持ち上げなかった。対等のままでいてくれた。
それだけでも、俺はほっとしているのだ。
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