10 / 32

10 ジェラルドの気持ち(ジェラルド視点)

 エリスが倒れた。発情の発作を起こした。  びっくりした。生まれてはじめて、そういうことに立ち会った。  オメガのああいう姿を、「発情期」と呼びならわしていた自分が恥ずかしい。発情だなんて、動物にしか使わない言葉だろう。  そして俺は、俺自身の欲望に、気づいてしまった。  エリスと暗い部屋で二人きりになって、身体をくっつけてみたい。ひどいことをしたい。  あの姿を見ておいて、こう思うだなんて、最悪の変態だ。  花のにおいが強く香っていたから、教室に入ってきた時点で、嫌な予感はしていたんだ。問答無用で保健室へ連れていくべきだった。  ぐるぐる後悔する俺を知ってか知らずか、エリスはひどく甘えてくる。勘弁してほしい。  俺はエリスが好きなんだ。がんばるエリスが。俺に突っかかって吠えるエリスが。俺が馬鹿にされたら、怒ってくれるエリスが。かわいくて、優しくて、勇敢なエリスが。  好きな子が俺を求めていることがどれだけ嬉しくて、扇情的で、耐えがたいことか、よく分かった。  どきどきする。それを通り越して、食べてしまいたい。その肌に噛みついて、ぜんぶ暴いて、めちゃくちゃにしてやりたい。  抑制剤を慌てて飲んだけど、一向に効いている様子がなかった。どんどん呼吸が荒くなって、身体が熱くなる。エリスの体温とかおりで、俺はどんどんけだものになる。 「いっしょにいて。ジェラルドがいい」  なのに、エリスがしがみついてきた。先生たちは俺が抑制剤を飲んでいることと、エリスのネックガードを確認する。  そして、エリスを俺から引きはがすべきではないと判断した。抑制剤もネックガードも心もとなくて、俺は途方に暮れているのに。 「マクソンくん。ライブラくんに抑制剤を飲ませてほしい。口の中に捻じ込んでもいい」  錠剤を手渡され、どうしようかと思った。その間にも、エリスの体調はどんどん悪くなっていく。うめきながら、苦しそうに悶えている。顔は赤らんで、とろんとした表情で、俺の胸元へ顔を埋めていた。すんすんとにおいを嗅いで、俺の名前を呼んでうっとりしている。  今すぐどこか暗い場所で二人きりになりたい。腹の中に収めてやりたい。なによりもこんな色っぽくてかわいいエリスが、みんなの前に晒されているのか。ざわり、と、気持ちが大きく揺らぐ。  理性を総動員して、錠剤を指先でつまんだ。エリスの口元へ持っていく。むちゅ、と熱い唇が吸い付いた。エリスは俺の指ごと錠剤を口に含んで、舐めた。ぞわ、と腰の裏側がわなないて、慌てて指を抜く。  エリスの喉がこくりと上下して、飲み込んだのが分かった。そしてくったりと俺の肩へ頭を預けて、身体の力を抜く。どうやら、気を失ったらしい。  ほっと息を吐く俺をよそに、担架が到着した。意識のないエリスはそれに乗せられて、保健室へと運ばれていく。  俺は先生たちに、授業を受けるように促された。言われるがままに立ち上がり、荒い呼吸を整える。  生理現象として知っている。オメガの発情にあてられたんだろう。  まるで獣だ。俺はエリスを獲物だと思ったし、狂暴な欲の対象にした。……犯したいとすら思った。  結局、俺は、アルファという性に抗えないんだろうか。  足を引きずるようにして、教室へと戻る。本当なら今すぐ保健室へ走っていって、エリスのそばにいたかった。でも、そういうわけにはいかない。番でもないし。  それに俺とエリスが、番になれるわけもないし。  なんとか扉を開けると、一斉に、視線が俺へ向けられる。  しんと静まり返った教室の中で、俺は胸を張った。ここで変な振る舞いをしてしまったら、俺だけじゃなくて、エリスに迷惑がかかる。  席について、何事もなかったように授業を受けた。だけど昼休みになって、にやついた顔のクラスメイトが、俺に話しかけてくる。 「なあ、ジェラルド。お前、ライブラの発情期に立ち会ったんだろ。どうだった?」  一般入試組だ。平民出身同士、馬が合うと思っていた相手だった。  すう、と頭が冴えていく。微笑んで、「別に、どうも」と答えた。相手は俺が話す体勢になったと思ったのか、エリスの席へ勝手に座る。 「エロかったよな、あいつ」  咄嗟に、「は?」という声が漏れた。こいつは今、エリスを下卑た目で見た。エリスはそんなふうに見ていい相手じゃないのに。  相手は怯んだのか、「なんだよ」と身体を引く。ごめんごめん、と軽く謝って、威嚇するようににらんだ。唇には笑みを浮かべながら。 「俺の前で、ライブラの悪口を言わないでくれるかな?」 「悪口じゃないって。オメガってそういうもんだろ、むしろ誉め言葉だ。アルファなのに分かってないのか?」  呆れた、と言わんばかりの口調だった。そんなの俺は一生分かりたくない。 「それ以前に、ライブラは俺の友人だ。彼を軽く見られたら、俺は怒るよ」 「悪いって。ごめん」  彼は気まずそうに頭をかく。それでさ、と、わざとらしく明るい声で話題を変えた。勉強を教えてほしい、という話だった。他にも、一般入試組の名前が挙がる。  ついさっきまでだったら、二つ返事で受けていただろう。最近ずっと、エリスとばかり勉強していて、人間関係を築くのがおろそかになっていたから。  でも今は、嫌だ。 「そいつらがみんな、お前に勉強を教えてほしいって。どうだ?」  ダメ元だと、彼の顔に書いてあった。俺の機嫌を損ねたことは、分かっているらしい。当然俺は、首を横に振った。 「先約があるんだ。ごめん」 「そっか、悪かったな」  エリスが心配だ。みんなの空気は、ずっと浮ついている。  クラスで唯一のオメガ。俺の他にもアルファはいるけれど、全員、今日はあまり使い物になってない。エリスの発情にあてられたんだろう。  ぼんやり窓の外を眺めていると、見知らぬ誰かが入ってきた。茶髪の小柄な男性だ。担任も一緒にいるから、怪しい人ではないだろう。 「ライブラくんの席はここです」  どうやら、エリスの家の人らしい。使用人だろうか。  彼はエリスの席への案内され、粛々と教科書類をかばんへ入れていく。 「あの」  なぜか俺は、その人に声をかけていた。彼は顔を上げて、「はい」と返事をする。 「エリスは、大丈夫ですか」 「……はい」  彼はふと考え込む仕草を見せた。こちらの首元をちらりと見て、それから、俺の瞳を見る。 「僭越ながらお尋ねいたします。最近、エリスさまに、何か変わったことなどはございましたか?」 「変わったこと」 「例えば、無理をしていたなど」  黙って、頷いた。彼はそれだけで分かったようで、「さようでございますか」と俯いた。そしてしばらく目をつむって、開ける。口は微笑んでいるけど、どこか悲しそうに見えた。 「エリスさまは、ご学友と競い合うことを、大変楽しまれておりました。どうかこれからも、仲良くしてくださいますと、主人も喜ぶかと」  返事に詰まった。黙り込む俺をおいて、彼は会釈をして立ち去る。  分かっている。彼は、俺を責めようとしているわけじゃない。エリスを思ってああ言った。俺よりずっと長く、エリスの側にいるだろう、彼なりの判断だ。  だけど、まだそこまで割り切れない。  エリスを倒れるまで追い詰めてしまったのは、きっと俺だ。  エリスは俺に勝ちたくて必死だった。俺はそれが、かわいくて、嬉しくて。  無理をしていることは、分かっていた。もっと強く、無理するなって止めていればよかったのか。エリスはこんなふうに、意図せず倒れなかったんだろうか。  考えたって仕方ない。だけど。 「ライブラ、エロかったな。あいつ顔はかわいいからさ……」 「俺、近くにいたんだけど、めちゃくちゃいいにおいした」 「オメガっていいよな。エッチだ」  ふざけるなよ。頭がどんどん冷えていく。  全員を殴りつけて、考えを改めさせてやりたい。  ……俺だって、エリスをそういう目で見ているくせに。最低だ。

ともだちにシェアしよう!