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16 ガリ勉、心が折れる

 しばらく、僕たちは無言だった。  ジェラルドは僕の手を黙々と引いて、庭を歩いた。裏庭を抜けて、校門の前を通って、校舎に入る。  そして廊下をずんずん歩いて、僕たちの教室の扉を開けた。誰も残っていない。  彼が中に入ったから、僕もついていく。彼はちらりと僕を振り返って、ためらいがちに口を開いた。 「……悪かったな。いきなり引っ張って」  唐突に謝るから、僕は「えっ」と声を上げてしまった。むしろ、こちらとしては、助かったんだけど。  ジェラルドは気まずそうに、教室の扉を閉めようとした。手をかけて、だけど「開けっぱなしにしとくか」と言って、そのままにした。  表情もちょっと暗い。どうして、と聞けるような雰囲気でもなくて、僕は「ジェラルド」と名前を呼んだ。 「助けてくれて、ありがとう」  怖かった。ジェラルドが助けてくれて、助かった。  僕の感謝の言葉に、彼は「別に……」とぼそぼそ何か言っている。 「当然のことをしただけって、いうか」 「うん。だけど、ありがとう」  ほっと息を吐くと、気が抜けた。だけどそうもしていられない、と背筋を伸ばす。  僕は、彼に、言わなきゃいけないことがあるんだ。 「そうだ。テスト順位の勝負」  ジェラルドは「え」と、目を丸くする。あんまり乗り気じゃなかったのかな。僕は恐る恐る、彼を見上げた。  今じゃないと、言えない気がする。言い出したのは僕なんだから、ちゃんと、勝負について言わないといけない。……そうでなければ、ジェラルドはきっと、うやむやにしてしまう気がした。 「テスト、僕に勝っただろ。何か頼みごと、していいよ……」  切り出した言葉に、ジェラルドは考え込んでいるみたいだ。顎に手を当てて唸っている。  沈黙が痛いほど心臓に沁みた。ぎゅっと拳を握って、返事を待つ。 「頼みごと。頼みごとか」  それきり、彼は黙り込んでしまった。やっぱり、あんまり乗り気じゃないみたいだ。僕が勝手に持ちかけた勝負だから、ジェラルドにとっては迷惑だったのかもしれない。  ジェラルドは、僕に頼みたいことは、ないみたいだ。  途端に恥ずかしくなる。頬が熱い。  全部、僕のひとりよがりだ。仲直りしたいって思ったことも、それを自分でなんとかしようとしたことも、きっと。  誤魔化すみたいに、へらへら笑う。 「な、ないんだったら、いいんだ」  情けなくて、早口に言い切った。僕はまたひとりで突っ走って、空回ったんだ。中学受験に失敗したときから、何も変わらない。 「ごめんね、困らせて。なんでもないよ」  明るい声を出すと、ジェラルドは「いや、その」と口ごもった。  もう十分だ。これ以上ここにいると、恥ずかしくて申し訳なくて、どうにかなりそう。  じゃあね、と言って、教室を飛び出した。ジェラルドが何か叫んだ気がしたけど、ちょっと落ち着いて聞けそうにない。  周りが僕を見ている気がする。生意気だって、分からせたいって、言ってる気がする。  校門に出ると、ルークが迎えに来てくれていた。僕が飛び出してきたのを見て、彼は目を丸くする。 「エリスさま、どうかされたんですか」  その声で、一気に気が抜けてしまった。僕はルークの前で足の力がなくなって、へなへなと座り込む。  握りしめていた手を開いて、顔を覆った。ルークは慌ててしゃがんで、僕の肩を抱いてくれる。 「はやく帰りましょう。立てます?」 「うん。うん……」  僕は何度も頷いて、ルークへしがみつくみたいにして立ち上がった。  お屋敷へ帰って、真っ先にベッドへ倒れ込む。メガネを外して、枕元へ適当に置いた。 「エリスさま。お水、ここに置いておきますね」  ルークは水差しを、ベッドサイドの机に置いた。僕は寝返りを打って、ルークを見上げる。裸眼だと、顔もぼやけて、どんな表情をしているかは分からない。 「ルーク。僕、勉強やめる」  え、とルークが声を漏らした。僕は布団の中にもぐって、頭からかぶる。 「疲れちゃった。しばらく、休む。教室はちゃんとやるから、みんなには伝えなくていい」  どきどきした。こんなことを言うのは、初めてだ。  しばらく、僕たちは黙っていた。空気がずんと重くなって、布団越しにのしかかってくる。  気まずさに耐えかねて恐る恐る布団から顔を出すと、「エリスさま」と、ルークが呼んだ。顔が遠ざかって、ますます表情が分からなくなる。 「……寝巻きをお持ちします。今日のところは休みましょう」  僕が呼び止めるより早く、ルークは出ていった。そしてすぐに寝巻きを持ってきて、てきぱき僕を着替えさせる。 「あなたは、よくがんばりましたよ。きっと、やりすぎなくらい」  その言葉が慰めだと、すぐに分かった。だけど、本当にそうだろうか。  僕はまだ、がんばれたはずだ。睡眠時間も、息抜きの時間も、まだまだ削れた。なのに、結果は出ない。 「ねえ、ルーク。僕のしたことって、無駄だったのかな……」  ぽつりとこぼれた弱音に、ルークは首を横に振る。だけど彼は何も言わずに、部屋を出ていった。  僕はベッドへ潜り込んで、そのまま丸くなる。目を瞑っても考えるのは、テスト結果とジェラルドのこと。それから、他の生徒たちから、不埒な目で見られていたこと。  悶々としている間に、また扉がノックされる。 「エリス。入るぞ」  リチャードお兄さまだ。僕が返事をするより早く、お兄さまが部屋へと入る。  今、あんまりこの人の顔を見たくない。それでもしぶしぶ身体を起こして、お兄さまを見上げた。無視するのは、まあ、よくないから。 「なんの用ですか?」  それでも声が少し、険しくなる。お兄さまは苦笑いをしながら、僕の隣に座った。 「お前が落ち込んでいると、ルークに聞いたんだ」 「お兄さまは、ルークの何なんですか……」  不貞腐れて呟くと、お兄さまは「いや、その」と口ごもる。僕がじっとり見上げると、軽く咳払いをして、とにかく、と仕切り直す。 「これまでずっと、無理をしてきたんだ。これを機に休んで、遊びなさい。もっと気楽にやった方がいい。かわいいお前が苦しんでいるのは、お兄さまたちもつらいんだ」 「僕が、オメガだから……?」  からからの喉で絞り出した声は、「そうだ」と力強く肯定された。お兄さまは僕の肩を抱いて、力強く引き寄せる。 「お前たちオメガのことは、私たちアルファが守るものなんだ。お前が心配することも、苦しむことも、何もないんだよ」  なるほど。お腹の底が冷たくなって、気分がゆっくりゆっくり、もっと深くて暗いところへ沈んでいく。唇を噛んで、頷いた。  お兄さまは、僕の肩を、大きな掌でぽんぽんと叩く。 「とにかく、今は休みなさい。ご飯になったら、またルークが呼びにいくよ」  手を離されると、僕はすぐにベッドへ潜り込んだ。布団を頭からかぶると、その上から頭を撫でられる。  その手の頼もしさが本当に、苦しくて、僕は目を瞑った。

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