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17 ジェラルドの緊急事態(ジェラルド視点)

 恥ずかしさと申し訳なさが、態度に出てしまったんだろうか。エリスは、テストの点数で勝負しようって言いだした。  気を遣わせて、情けない。  それでやっぱり、エリスには俺の下心が分かったんだろうか。  テスト結果発表の後も、俺とろくに話さないうちに帰っていってしまった。謝る間もなかった。  すごくつらそうだった。頼みごとをすぐに言えなかった。あちらからしたら、俺が真面目に取り合っていないように見えただろうから。  だけど、頼みごとなんて言えるわけなかった。エリスはまたアルファの先輩から無理に迫られて、怯えていた。  そんな状況で、まだ俺と仲良くしてほしいなんて、頼めない。  俺だってアルファで、オメガのエリスのことを、そういう目で見てしまっているから。  そもそも、エリスが倒れた原因だって俺だろう。そこからさらに散々つれない態度をとっておいて、どの口が言うんだって話だ。エリスが何を頼むつもりだったのかは分からないけれど、少なくとも、俺から言っていい話じゃないと思う。  だからって、せっかく勇気を出してくれたエリスの気持ちを、傷つけていいわけでもなかった。  俺は、どうすればよかったんだろう。  本音を言うなら、今すぐにでも会いたい。直接話して、俺のことをどう思っているか知りたい。  それに、謝りたい。すぐに頼み事が思い浮かばなくて、ごめんって。あれは、エリスなりの歩み寄りだっただろうに。  俺のことを怖がっていたって仕方ないと思う。ヒートを起こしたエリスに対して、あの時の俺が冷静な対応をできていたか、まるで自信がない。  それでも、俺は、エリスに会いたい。このまま縁が切れるのは嫌だ。明日、思い切って、学校で話しかけようか。まだ、間に合うだろうか。  あれこれ悩みながら、自宅へと帰る。養子に貰われた先のマクソン侯爵家の、タウンハウスだ。貴族の邸宅の並ぶ一角にあって、他にも俺と同じ制服を着た学生の姿がちらほら見える。あの学校に通えるのは普通、こういう場所に住む人たちだ。  ドアマンが扉を開けてくれて、恭しく頭をさげられる。俺はどうにもそれが居心地悪くて、やめてほしい。でも、俺がこの家にもらわれた以上は、ある程度は諦めないといけないんだろう。 「ジェラルド、お帰りなさい」  は、と顔をあげる。エントランスホールから二階へ続く階段から、養父であるマクソン侯爵が降りてくるところだった。太鼓腹を重たげに揺らしながら、ゆっくりこちらへ向かってくる。薄い白髪を丁寧に後ろへ撫でつけているから、おでこが広く見えた。しわしわの額の下にある、厚ぼったい瞼の向こうで、細い瞳が瞬きを繰り返している。立派な髭を指先で撫でる彼へ、俺は会釈をした。 「おじいさま。ただいま帰りました」  彼は重々しく頷いて、「学校はどうだった」と尋ねる。彼は俺に、自分のことを「おじいさま」と呼ばせていた。  使用人を呼び寄せて、俺の荷物を持たせる。されるがままに鞄を任せると、養父は「それで、どうだ」と急かすように尋ねた。 「いつも通りですよ」 「う、うむ。そうか……」  彼は何度か咳払いをして、「疲れただろう」と二階に続く階段をちらりと見る。そして俺を見て、また階段を見る。  にこりと微笑みかけた。 「はい」  俺が先に階段を昇りはじめる。大方、彼の書斎へ呼びたいのだろう。  この人は、俺の話を、よく聞きたがるから。 「おじいさまの書斎でいいですか?」 「うむ」  重々しく頷く。いちいち大げさだけど、貴族っていうのは、みんなこうなんだろうか。エネメラ先輩が一瞬浮かんだあと、エリスのことを思い出す。……みんながみんなってわけでも、ないんだろう。  そのエネメラ先輩が言っていた嫌味を、口の中で転がすみたいに反芻した。要するに、この人が俺を引き取ったのは、もうろくした老人の娯楽って言いたかったんだろう。  だけど多分、この人は、そうじゃないんだと思う。 「ジェラルド。入りなさい」  おじいさま自ら扉を開けて、俺を中へと招き入れた。書斎には、毛足の長い真っ赤な絨毯が敷かれている。下の弟妹が飲み物や食べ物をこぼしたら大変だな、と毎度思う。  彼は書斎机に座って、引き出しから手紙を出した。俺はその机の前に立って、脚を肩幅に開き、腕を後ろで組む。  直立不動の俺を見て、おじいさまは、細い目をさらに細めた。 「家族からの手紙だ。あとで読みなさい」 「はい」  家族は、俺へ頻繁に手紙を送ってきている。おかげで寂しさは感じずに済んでいた。……それから、エリスの存在。  ちいさな咳払いの音が聞こえて、俺は顔をあげる。いつの間にか、物思いに耽ってしまっていたらしい。 「……前の手紙には、なんと書かれていた?」 「弟や妹の話が書かれていました。あとは、よく勉強するように、と」 「そうか」  そしてこの人は、いつも俺に、手紙の内容を聞いてくる。何でこんなことをするんだろう、と思っていたけれど、今は思い当たる節がある。  おじいさまは、さらに咳払いをした。引き出しから、革表紙の分厚い本を取り出す。 「ジェラルド。今日も、貴族年鑑の勉強だ。お前は覚えがはやいから、先週から始めて、もう二週目に入ったな」  はい、と頷く。  この人は俺に、貴族社会のいろはを叩き込もうとしていた。おじいさまには、跡取りがいない。昔は娘がいたらしいが、使用人と駆け落ちをして消えたらしく、彼の直接の子孫はいない。だからこのままだと、彼の遠縁の人間に、家督が移るらしい。  今は、そういうことになっている。  そして俺が今受けているのは、恐らく、彼の後継者としての教育だ。 「食事は、今日も一緒にとろう。お前は覚えがいいから、マナーの教え甲斐がある」  恐らくこの人の娘は俺の母親。そして俺は、この人の実の孫。はっきり聞いたことはないけれど、周りの態度でなんとなく分かる。  古参の使用人たちの目つきと噂話。養父からの特別扱いに、後継者教育。  普通、アルファの養子をとったからって、ここまでの扱いはしないはずだ。俺の今の待遇は、破格どころの話じゃないと思う。  これから先の俺の未来は、俺にもまったく分からない。平民として生まれ育ったのに、貴族の跡取りになるかもしれないなんて。  めまいがしそうだ。もし跡取りになるとしたら、背負うものが多すぎる。  はっきり言って、しんどい。それに加えてエリスとの関係も大変なことになっていて、今の俺は、はち切れてしまいそうだ。  いつも通りの、おじいさまとの学習を済ませて、部屋に戻る。  真っ先に、手紙の封を切った。便箋は、一枚だけ。  そこに書かれている言葉に、俺は我が目を疑った。  すぐ下の妹に、ヒートが来た。彼女はオメガだった。  どうにかマクソン家の方から支援がほしい。  母親の端正な筆跡を、何度もなぞる。  紛れもない緊急事態だ。  そしてきっと、俺が解決の鍵を握っている。  俺次第で、妹はどのようにもなってしまうだろう。  平民のオメガは、悲惨だ。貴族と違って伴侶としての「価値」すらないから、権力者たちから性玩具扱いされてしまう。最悪、娼館へとさらわれることもあるらしい。  ぼんやりしている間に、食事に呼ばれた。咄嗟に、懐へ手紙をしまった。  広い食堂に向かえば、すでにおじいさまは座って待っていた。俺と彼の他に、この大きなテーブルにつく人はいない。  使用人たちが壁に立っているのを後目に、俺はナイフとフォークの使い方を、おじいさま自ら教わる。 「角度はもう少し内側に向けなさい。お前は皿で食器を擦る癖があるな……」  指導は厳しいけれど、確かにためになるものだった。おかげで俺の立ち居振る舞いは、この半年でものすごく洗練されたと思う。エリスはそれに気づいていたかな、と、ふと思った。  エリスは運動神経が悪いけれど、身のこなしはすごく優雅だ。俺はその隣に並んでも、見劣りしないくらいになりたい。  俺が今、直面している、この問題を解決したら。  彼の隣に、並び立てるようになるんだろうか。  食事を終えてる。おじいさまを見て、微笑みかけた。 「おじいさま。食後、書斎へ伺ってもよろしいですか」 「お、おお。来なさい」  彼は一瞬言葉に詰まって、だけど快諾してくれた。髭の奥で、唇がわずかにわなないている。  こういうところを見ると、この人は俺へ情を傾けすぎていて、逆に心配だ。  食後、俺たちは連れ立って、おじいさまの書斎へと向かった。おじいさまはいつもより軽やかな仕草で扉を開けて、俺を招き入れる。  俺の胸は、どくどくと大きな音を立てて脈打った。  今が分岐点だ、と思う。  これを踏み出したら、俺はもう、前と同じ生活には戻れない。  妹の顔が浮かんだ。彼女の人生を、他人の欲でめちゃくちゃにされてなるものか。  それから、エリスの香り。彼のはにかむような笑みを思い出して、目を瞑る。 「お前から書斎へ来るとは、思わなかった。何か話があるのか?」  彼はいそいそと書斎机へついた。俺は目を開く。一歩一歩寄っていって、机へ両手をついた。 「俺の生まれについてと、この家の後継者について。そろそろ教えていただいても、いいと思います」  おじいさまは、驚いた顔をした。俺は、さらに続ける。 「妹がオメガだったそうです。あなたの孫娘でもあるはずだ。……どうか、助けてください。お願いします」

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