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21 優しくて、勇敢な

 お風呂からあがると、あたたかいお茶が用意されていた。僕はそれを飲みつつ、ぼんやり、教科書を読む。  ジェラルドの言葉を思い出していた。それから、ルークの言葉。  僕が、がんばっていること。ルークたち家族が仕事につけたのは、僕のおかげだって言われたこと。  胸の奥に、得体の知れない熱がある。これまでずっと、僕は、僕のことを「ダメな奴」って思ってた。だからこそ周りより賢くなって、見返してやりたかった。  そのために、なんだってやった。何もかもを削って勉強のために充てて、結果を出しては及ばない相手を見下して。勝ったって思うことで、自分を保ってきた。  だけど、本当にしたかったことは、必要なことは、それじゃないみたい。  ルークも、ジェラルドも、僕のことを認めてくれている。それを僕本人が否定するのって、きっと筋違いだよな。  それに何よりも、二人の言葉は、すごく嬉しいものだった。僕を「かわいい貴族のオメガ」じゃなくて、エリス=ライブラとして認めてくれた。  僕自身がこれまで積み上げてきたものを、二人が、見てくれた。  ふと何かを抱きしめたくなって、枕を掴んだ。膝の上に置いて、ぎゅうっと抱きしめる。  顎を置きながら、ぼんやり、教科書を見つめた。  僕はこれまで、オメガの自分を否定したくて、必死でがんばってきた。  しなくていい理由に「オメガ」を使われたから、そんなの関係なく、なんでもできるようになりたかった。  なのに、がんばらなくていいって言われて、悔しかった。そんなに勉強したがって、仕方ない子だなって言われて、もどかしかった。  だけどそもそも、最初に勉強を始めた理由は、それじゃなかったはず。  そうだ。思い出せ。  使用人たちへ、勉強を教えたかったから、子どもの頃の僕は必死で勉強していた。もしも彼らが読み書き計算を身に着けられたら、人生が変わるって、聞いたから。  まだ小さかった頃。ルークが、教えてくれたんだ。叔父さんがギリギリ勘当されていなくて、お屋敷で、お客さんとして暮らしていた頃。ルークのお母さんはもういなかった。屋敷中になんとなく、彼ら一家を軽蔑する雰囲気があった記憶がある。  その頃のルークは、一番下の妹をあやしながら、よく言っていた。  勉強できなくて悔しいんだって。それさえできれば、もっといい暮らしができるはずなのにって。  枕から、右手を話す。教科書をめくって、紙を撫でた。  そうだ。僕はずっと、人の役に立ちたかったんだ。気づいたら、僕自身をすごく見せるために、勉強をしてしまっていたけど。  僕は勉強ができるから、すごいわけじゃない。そんな、すごく限定されたところに、本質的なすごさが宿るわけない。  僕はきっと、がんばっていて、優しい人なんだ。少なくとも、ルークとジェラルドにとっては、そうだ。  だったら僕がするべきことって、勉強して、「勝つ」ことじゃないよな。  枕をベッドへ戻して、机に座り直した。ページをめくって、ノートを引っ張り出す。  僕は、勉強が好きだ。人の役に立つのが好きだ。  そして今、僕がやっているのは、学力という物差しでの競争でしかない。この競争は、学生時代までの期限付き。そして学生時代よりも、その後の人生の方が、ずっと長い。  だったら、人の役に立つために勉強しよう。  学生生活が終わって、社会に出たら、誰かを助けられる人になりたい。  それが、僕の、本当にやりたいことだ。  将来、僕が何になれるのかは、分からない。だけどきっと、僕が進みたい道は、どこかにあるはずだ。 「やるぞ」  黙々と、勉強をはじめた。喉が渇くのも、お腹が減るのも、気にならなかった。  ルークが食事の時間だと呼びに来たけど、それにも気づかなかった。引きずられるみたいにして食堂に行くと、両親とお兄さまは、もう食卓についていた。  お父さまが、心配そうに目を細めて言う。 「エリス。雨で濡れたと聞いたが、大丈夫か」 「はい。大丈夫です」 「そうか……。つい最近、学校を休んだばかりなんだ。無理はしないように」  その横で、「あなた」とお母さまがつっつく。 「エリスちゃんに言うことが、もうひとつありますわよ。あなたから言ってくださいまし」 「ああ、そうだな」  お父さまは咳払いをして、僕に微笑みかけた。なんでか、嫌な予感がした。 「お前に、婚約の話が来ている。エネメラ家の息子はお前と年が近いし、アルファだ」  エネメラ先輩、と呟いた。お父さまは「知り合いだったら話が早い」と、手を叩く。  僕は膝の上で、ぎゅっと拳を握った。 「嫁入り先として申し分ないはずだ。エネメラ家は将来有望だし、私の事業でも深く関わっている。良縁だな」  ああ。僕はため息をかみ殺して、微笑んだ。  お父さまは、「よかった」と、微笑みながら目じりを拭う。何度も、大きく頷いていた。 「彼もまた、優秀なアルファだ。身体能力が高く、乗馬と狩りの腕もなかなかのものでな。ただ勉強は苦手なようだから、お前と得意不得意を補え合える、いい伴侶となるだろう」  息を吸い込んだ。気合いを溜めて、顔をわずかに上げる。 「いいえ」  はっきり首を横に振る。思ったよりも、大きな声が出てしまった。  その勢いのまま、言葉を続ける。 「嫌です。僕は、受けるとは、一言も言っていません」  しん、と部屋が静まり返った。お父さまとお母さまは目を剥いて、僕を見つめる。  お兄さまが「エリス」と呟くのが、どこか遠く聞こえた。  お父さまの太い指が、わなわなと震える。お母さまは扇を取り出して、自分の顔を扇いでいた。その目がきゅうと細くなって、口元へ笑みが浮かぶ。 「エリスちゃん。結婚は、幸せなものよ。何も怖くないのよ」  猫なで声に、「だとしても嫌です」と、噛みついた。今度は、声が震える。 「僕の人生はお嫁に行っておわりじゃない。たしかに、僕はエネメラ先輩と知り合いです。だからこそ、あの人が僕と結婚したら、僕を自由にさせないことくらい分かります」 「でも、きっとあなたのためなのよ。あなたに苦労させないように、守ろうとしてくれるってこと」  またこれだ。顔をしかめる僕に構わず、お母さまはなおも続けた。 「アルファとは、そういうものだわ。オメガという愛すべき性を、なによりも大事にするの。あなたは大きな喜びを得られる、特別な存在なのよ」  それが支配だってことを、この人たちは分からないんだろう。支配する側だから。  でも今、この人たちに僕を理解してもらうとか、そういうのが大事なんじゃない。主張しなくちゃ始まらない。 「僕、結婚したくないです」  言え。ジェラルドに褒められた通り、僕が勇敢なのであれば、できるはずだ。 「あなたたちの言いなりに結婚したくない。勉強を続けて、人の役に立ちたい……!」  何もできない自分は嫌だ。僕がオメガだからって、「できること」を取り上げられるのなんか、論外だ。  お父さまは「ふざけたことを言うな」と、僕を叱責する。 「お前はオメガだ。アルファに守られているべき存在なのだ。無茶を言ってはならん」 「無茶を言っているのはそちらです。僕だって、意思のある人間なんです」  分かってもらおうとは思っていない。この場では、それに同意しないことが、僕の目標だ。  これまでずっと、愛の形をした支配に、従っていた。お父さまとお母さまからの束縛を激しくしたのは、僕のそういう態度も原因なんだろう。  だったら、これからははっきり拒絶する。  僕は、勇敢なんだ。  お父さまとお母さまは、何度も「ダメ」って言う。僕はそのたびに、嫌だと首を横に振った。  控えている使用人たちも、騒めきながら、事の成り行きを見守っている。  延々と続く口論に、お兄さまはじっと僕を見つめていた。  しばらく経って、お父さまとお母さまが根負けした。一旦食事をしよう、とカトラリーを手に取る。  僕も黙って、ご飯を食べた。  いつもよりも、味がしない。ばくばくと心臓が鳴っている。  だけど僕は、成し遂げたんだ。  ちゃんと自分の意見を伝えて、反抗できた。  ジェラルドの評価に恥じない、勇敢な人になれたかな。

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