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20 再会

 ジェラルドは、僕を手早く立たせた。ずぶ濡れの僕を、彼の湿ったハンカチで拭いてくれる。  眼鏡をかけて彼を見れば、顔をしかめているみたいだ。レンズが濡れているから、視界がおぼろげ。  だけど、かえって、それでよかったのかもしれない。やっぱりまだ、ちょっと気まずいから。  ジェラルドは「拭いてもきりがないな」と呟く。 「ああ、もう。なんで、こんなになるまで外にいたんだ」 「きみが、お兄さまと話しているのが、見えたから……」  言い訳がましくそう言うと、彼は「そうか」と言った。それきり黙り込んで、僕を見つめる。  視界が悪い。だけど彼を見る勇気はない。誤魔化すように眼鏡を外して、自分のハンカチでレンズを拭いた。 「俺たちの話、聞こえてたのか?」  強張った声だった。僕は「うん」と、彼を見ずに頷いた。俯いて、眼鏡をかけ直す。  どんな言葉をかければいいのか、分からない。彼の境遇は、すっごく大変なものだと思う。  お父さんとお母さんは身分差があった。そして結婚を許されず、駆け落ちした。だけど生まれた子どもの中で、彼だけ、お母さんの実家へ引き取られた。そして、後継者になるための教育を施されている。  きっと、彼自身が望んで選んだ展開じゃないことくらい、僕にだって分かるんだ。  黙り込む僕を見て、ジェラルドは「そうか」とため息みたいに呟いた。ちらりと彼を見上げる。彼は口元を引き結んで、それから、「エリス」と僕を呼んだ。  思わず背筋が伸びる。ピントはなかなか合わないけど、彼を真っすぐみつめた。  ジェラルドが口を開く。ちょっと声が掠れて、苦しそうだ。 「こないだは、ごめん」 「え? なんのこと……?」  ジェラルドが僕に謝らなきゃいけないことって、何かあったっけ。首を傾げる僕に、ジェラルドは「いや」と口ごもった。 「あの、学校で最後に会った時。俺が勝負に勝ってたのに、頼みたいことを言えなくて、ごめん」 「……うん」  気にしていたんだ。ぽかんとジェラルドを見上げる。 「そんなの、全然気にしてないよ」  本当は、嘘。だけどジェラルドの言葉で、心に残っていたしこりが、溶けていく。  ジェラルドはたぶん、僕のことが嫌いなわけじゃないんだ。こうやって、彼には非のないことで、謝ってくれるんだから。  やっぱり、ジェラルドはすごい。たった一言で、僕の気持ちを軽くする。 「えっと。その……きみ、マクソン伯爵家を継ぐんだ……」  そんなことより、ジェラルドのことが気になった。僕が話題を変えると、ジェラルドは「ああ」と、苦く笑った。 「俺みたいな平民が、名誉ある伯爵家の跡取りになるんだと。……分不相応だって、いろんなところから言われてる」 「そんなことない」  すぐに首を横に振って否定する。そんなわけがあるか。貴族たちは血筋を理由に、自らを優秀で、責務ある人間だと主張する。だけどそんな連中が、ジェラルドにかなうわけがないんだ。  彼の本当にすごいところは、自分じゃどうしようもない、生まれつきの性別や血筋なんかじゃないから。  努力したこと。その結果が出たこと。それこそが、彼の本当にすごいところなんだから。 「きみは、すごい。努力家だし、優秀だ。跡取りという立場が、分不相応なわけない」 「うん」  ジェラルドは、ただ頷いた。僕を見つめて、そっか、と呟く。  その声色が優しくて、僕の心臓が高鳴った。どぎまぎしながら、さらに続ける。 「だ、だから、その。あの人が言ったことなんか、気にしなくて、いいよ」  口ごもりながら言うと、彼は声を上げて笑った。これまで聞いた中で、一番明るい声だった。  あっけにとられる僕へ、ジェラルドはさらに、傘を傾けた。一歩距離が詰まって、顔が近づく。 「俺も、お前のこと、すごいと思ってる」  思ってもみない言葉だった。驚いてしまって、「え?」と目を見開く。  彼は僕の肩に、傘を持っていない方の手を置いた。その指が顎をたどって、頬を撫でる。どうしよう、身体が熱い。 「う、う……」  でも、もっと触れ合っていたい。思い切って頬ずりすると、ぱっと手が離れた。物足りなくて彼を見上げると、ちょっとだけ、顔が赤い。  それでもジェラルドは、僕を真っすぐ見つめていた。 「お前は、優しい。それに、勇敢だ」 「ええ……?」  僕がこれまで、ジェラルドへ優しくしたことなんか、あっただろうか。いつも突っかかっていた記憶しかない。  腕組みをして、一生懸命、これまでのことを思い出してみる。ジェラルドは僕を見て、「そういうところだよな」としみじみ言った。 「お前だって、すごい。お前のそういうところを、俺はよく、知ってるつもりだ」  こいつ、僕の何を見てそう言ったんだろう。思わず怪訝な顔をすると、彼はまた笑った。 「俺が平民だって馬鹿にされたら、怒ってくれるところ。腹が減った俺に、クッキーを分けてくれるところ。今みたいに、追いかけてきてくれるところ」  たしかにそういうことをした覚えは、ある。  だけどそんなの、当たり前のことだろう。それのどこが、すごいって言うんだ。 「……もしかしたら、困ってる人を見過ごせないんじゃないか? お前。そういうのが、お前のすごいところだ。オメガとか、貴族とか、関係なくて」  納得できない。過大評価だ。でも、好きな人からべた褒めされて、頬が熱い。ぽうっとジェラルドを見上げていると、彼は、何かを耐えるみたいに唇を噛んだ。 「だから。……俺は、優しくて、勇敢なお前の隣に、立ちたいんだ」  すごく抽象的な言葉だと思った。それからすごく切実で、大切な話をされているって、痛いほど分かる。 「俺は、マクソン侯爵家を継ぐよ。そうなったのは、俺がアルファだからとか、優秀だからとか、そういうのもあるんだろうけど。でも俺自身が、そうしたいんだ」  彼の言葉が、雨傘の中に、しんしんと響いた。僕は気づけば、「なれるよ」と口にしていた。 「きみなら、なんだってできる。きっと、なれる」  うん、とジェラルドは頷いた。その目は優しくて、熱くて、少し潤んでいる。  目を逸らせない。僕たちはずっと見つめ合っていた。  傘の中に、二人きり。熱と声がこもって、世界に僕たちだけみたい。 「エリス。俺は……」  続きをもっと近くで聞こうと、すこしだけ、踵を浮かせた。  だけど遠くから、僕を呼ぶ声がする。ルークだ。  はっとなって、振り返った。そういえば、帰ってきたことを、誰にも伝えていない。もしかしたら、お兄さまが何か言ったのかも。  僕は呼び声に返事をしようとして、くしゃみをしてしまった。ジェラルドは僕へ傘を握らせて、「もう帰れ」と言う。 「風邪を引く。はやく家に入ったほうがいい」 「でも、なんて言うのか聞けてない」  ジェラルドは「そんなこと」と笑った。ちょっとだけ、顔が赤い。 「今度言うから。また、学校で」  呼び止めるよりはやく、彼は雨の街並みへ飛び出していった。当然、僕の脚で追いつけるわけがない。  仕方ないから、僕はジェラルドから借りた傘で雨をしのいだ。門番に帰宅を告げると、すぐにルークがすっ飛んでくる。  玄関に連行されて、そのままふかふかのタオルで全身を拭かれた。 「エリスさま。こんなになるまで雨に降られていたんですか」  まったくもう、と言いながら、手際よく拭いてくれる。その手つきの力強さと優しさに、「ごめん」とほっと息を吐き出した。  ルークはぷりぷりしながら、そうそう、と続ける。 「リチャードさまも心配されていましたよ」  そう言ったそばから、お兄さまが顔を出す。つかつかと寄ってきて、「エリス」と僕を抱きしめた。まだびしょ濡れだから、そんなことをしたら、お兄さまも濡れるだろうに。 「かわいいお前。雨に濡れてしまっては、風邪を引いてしまうよ。湯を沸かすように言ってあるから、後で入りなさい」  わしゃわしゃと頭を撫でられて、ルークへ引き渡される。僕の形にできている、ぼやけた染みから、そっと目を逸らした。 「ルークも、お疲れさま。お前もあたたかくしなさい」 「はい。承知しました」  お兄さまは、ためらいがちにルークの肩を叩いた。ふと手が頬へ伸びて、指の背で撫でる。  ルークはあくまで表情を崩さずに、「何か」とお兄さまを見つめた。 「いや、……なんでもないんだ。じゃあ」  なんだか、ものものしい雰囲気だ。僕は立ち去るお兄さまの背中をじっと見つめて、それからルークへ視線を戻した。 「お風呂に入りましょうか」  ルークは何もなかったみたいに、浴室へ向かって歩き出す。僕は何度も、お兄さまを振り返りながら、ルークの後に続いた。

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