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19 ガリ勉の天下

 翌朝。お父さまとお母さま、それからお兄さまも、僕に「学校へは行かなくていい」って言った。  そんなの知ったことじゃないから、僕は学校へ行った。丸一日休んだんだから、十分だろう。  登校すると、また教室中からじろじろと視線が向けられた。居心地悪いけれど、我慢。ジェラルドは、まだ来ていない。  僕は席について、ひたすらに彼を待った。  そしてジェラルドは、ホームルームが始まってもやってこなかった。先生がやってきて、彼は休みだと言っている。  拍子抜けだ。だけど、よかったのかもしれない。僕は、ジェラルドとどんな顔をして会えばいいのか、まだ分からないから。  いつも通り授業を受ける。一時間目の数学の授業では、僕は初めて、クラスで一番早く問題を解いた。教壇に立って黒板へ答えを書き出せば、クラス中からため息やうめき声が聞こえる。  先生は満足げに手を叩いて、微笑んだ。 「ライブラ、ありがとう。模範解答のような、綺麗な解き方だ」  誉め言葉に、僕はにこりと愛想笑いを浮かべる。ありがとうございます、と会釈をした。  何でか、全然嬉しくなかった。  クラスのみんなが、教壇に立った僕を見る。その視線の色が、いつもと違った。  みんな、僕がこれを解けると思ってなかったみたいだ。ジェラルドがすごく速く解いてしまうだけで、僕だってこれくらいはできる。それをみんな知らなかったから、驚いているんだろう。何人かは気まずそうにしている。  ちょっと前までだったら、ざまあみろって思っていたんだろうな。  俯きがちになりながら、席に戻った。  昼休みは、一般入試組の何人かに話しかけられた。僕があの問題を解いたことで、どうやら見直してくれたらしい。  すごい。僕が問題をひとつ解いたら、ちょっとだけ、周りが変わった。  こんなにささいな、どうでもいいことで変わるんだ。  僕が必死に信じていたものって、こういうことだったのかもしれない。  それからの毎日は、この繰り返しだ。一週間、ずっと。  いつでも、あっという間に放課後がやってくる。僕は荷物をまとめて、話しかけられる前に教室を飛び出した。明日は「教室」の日だから、図書室で内容をまとめておきたい。それで、いつもの時間になったら帰ろう。  とぼとぼ歩いていると、「エリス」と声をかけられた。顔をあげると、エネメラ先輩だった。  足が止まる。先輩は僕へ歩み寄ってきて、「図書室で勉強かい」と顔をのぞきこんだ。一歩さがる。また、一歩詰められる。 「僕も一緒にやりたいな。いいかい?」 「え、いや……その……」  断りたい。でも、どうやって断ればいいんだろう。  いつもだったら、ジェラルドが割って入ってくれている場面だ。だけど今日、ジェラルドは休み。  自分でなんとかするしかない。ぎゅっと目を瞑って、声を捻り出した。 「あ、……やっぱり、帰ります!」  くるりと背中を向けて、走り出した。背後でエネメラ先輩が呼んでいる。そのエネメラ先輩は、他の先輩に呼び止められて、足を止めたみたいだ。彼らは、からかうみたいに言う。 「エネメラお前、また補習ギリギリだったんだろ。下級生に基礎から教えてもらうのか?」 「貴様ッ……!」  後ろで、何か揉めていた。そんなことを気にしている余裕は、今の僕にはない。  走って、走って、昇降口から飛び出す。ちょうどたくさんの学生が下校する時間だから、僕は人混みに紛れたことだろう。  すぐに息が切れて、呼吸が苦しくなる。立ち止まって、よろよろと学校の塀に寄りかかって、荒い呼吸を繰り返した。  汗だらだらだ。眼鏡の鼻当てがズレて、それを指で押し上げる。みっともない顔になっていることだろう。  また、ゆっくり歩きだした。さすがに、毎日通る通学路くらいは覚えているんだ。ちゃんと一人で帰れる。そもそも、毎日ルークを迎えに寄越してくる家族が、過保護なだけで……。  空を見上げると、分厚い雲が垂れこんでいた。ちょっと、天気が怪しい。  傘を持っていない。いつもは、ルークが迎えに来てくれるから、油断していた。天気が悪い時には、いつも彼に、雨具の類も持ってきてもらっているから。  雨が降ってきたら、面倒だな。今度からは、行きに自分で傘を持っていくようにしよう。  かばんを持ち直して、できるだけはやく歩いた。いつもルークと話しながらだとあっという間に感じる道のりも、今日はやけに長くて、退屈だ。  でも、あと少しでお屋敷に着く。その時、ぽつっと水滴が頬に落ちた。掌を出すと、そこにもぽつぽつと水の落ちる感触がある。  降ってきた。がくがくの身体に鞭打って、帰り道を急ぐ。  ここの角を曲がれば、うちの屋敷の門はすぐだ。早足で歩く僕の耳に、お兄さまの声が届いた。 「わざわざご足労いただいて悪いが、エリスは学校へ行っている。帰りたまえ」  誰か、僕を訪ねてきたんだろうか。思わず足を止めると、また別の声が響く。  ジェラルドだ。 「それでは、彼の帰りを待たせてください。一目会うだけでも構いません」  どうしてジェラルドがここに。思わず身を隠して、物陰からそっと門を見つめた。その前には、ジェラルドとお兄さまが立っている。眼鏡のずれを直して、二人を凝視した。  お兄さまは遠目に見ても分かるほど、はっきり首を横に振る。 「君の主張は分かった。しかし、事前の約束もなしに『会わせろ』という礼儀知らずに、うちのエリスを会わせたくはないな」  その口調には、嘲るみたいな雰囲気があった。ひやりとする。 「それに君は今、マクソン家の後継者教育に励むべきだろう。平民出身の者が簡単になじめるほど、貴族社会は甘くない」  ジェラルドは後継者になるらしい。すごい。知らなかった。  呆気に取られている間に、お兄さまは、傘を開いた。ジェラルドも傘を持ってるみたいだけど、じっと立っているだけだ。 「マクソン家は二十年前、一人娘が卑しい下男と駆け落ちして、注目の的になった。まさかその息子である君が、後継者になろうだなんてね。それも、正当な権利を持つ、他の高貴な縁者たちを差し置いて」  は、と、息を吐いた。ジェラルドは動かない。  そうだったんだ。ジェラルドのお母さんとお父さんは、そういう経緯があったんだ。  これまで彼の家族のことを、聞いたことはない。寂しさと、驚きと、苦しさ。  ジェラルドはこれから、大変なものを背負おうとしている。それに比べて、僕は……。 「これから、大変だと思うよ。で、今、こんなことをしている場合なのかな?」 「……お願いします。エリスに会わせてください」  思わず、駆け寄ろうと思った。雨脚はどんどん強くなってきて、肩はびしょ濡れだ。  だけどお兄さまは、「帰りなさい」と突き放した。  ジェラルドは、しばらくそのまま立っていた。だけどしばらく経って、ゆっくり頭をさげる。 「また、来ます」  そして、持っていた傘を開いた。踵を返すジェラルドに、焦りが募る。  お兄さまも、彼の背中を見つめていた。傘をさしているせいで、表情までは見えなかったけど。もう、何がなんだか分からない。  だけどジェラルドは、僕へ会いに来てくれたんだ。  それだけで、僕が彼を追いかける理由は、十分だ。  雨の中、地面を蹴って走り出した。革靴が水で濡れて重たいし、制服が水で濡れて貼り付いて、気持ち悪い。いくら夏だからって、雨に降られたら風邪を引くかも。  だけど今、ジェラルドを追いかける以上に大切なことは、ない。 「ジェラルド、待って!」  ぴたり、と彼は足を止めた。声が届いたのか、振り返る。  眼鏡が雨で濡れて、視界が悪い。僕は足がもつれて、そのまま転んでしまった。石畳へのびたカエルみたいに転がって、呻く。お腹から、びたんと地面へ叩きつけられた。 「いったぁ……」  転んだせいで、眼鏡も飛んでいってしまった。どこにいった。手探りで地面を叩いていると、降り注ぐ雨がふっと止む。  見上げれば、人の顔があった。 「エリス」  ジェラルドだ。彼はしゃがんで、僕の手に、眼鏡を握らせてくれた。

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