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奉仕型⑥

 レンズ越しの瞳が、考えるように伏せがちになる。そこには普段は見えない懊悩の色が確かに浮かんでいた。彼が思い悩むことなんて、きっとよっぽど難しいことだろう。俺なんかで答えられるだろうか。 「最近、僕はおかしいんです」  言葉の続きを、黙って待つ。おかしいとは──何かあったのだろうか。 「その、とある人のことが……妙に、気になるんです」  え。  身構えた体が、固まる。だって、その内容は──予想外で。 「……学年が違うのですが……僕は、仲の良い相手だと思っていました。だけど、最近、その人のことばかり考えてしまって。胸が、苦しくて……」  それは、つまり。  誰かに、恋しているということではないか。よくよく見れば、頬はうっすらと色づいている。眼鏡をかけ直すその細い指先は、動揺を表すように僅かに震えていた。 「うわ恋じゃん!! え、恋だよそれたぶん!!」  まさか彼から恋バナをしてくれるとは思わなかった。大きな声が出てしまう。わあ、と笑顔を作ると── 「──そんな」  対照的に。彼は、驚愕の色を浮かべて。消え入りそうな声で呟いた。 「恋なんて……だめだ……そんな浮ついたことなんて、している場合じゃないのに……」  面食らう。しかし、納得した。……彼の親御さんからすれば、きっと恋も勉強の妨げになるだろうから。口酸っぱく言われてきたのだろう。 「……別に、悪いことじゃないと思うけどなあ。したらしたで楽しいと思うよ」  え、とか細い声。不安と困惑に揺れる瞳が、俺を見上げた。 「学生生活なんて短いんだし。やれることはやった方が後悔しないんじゃない?」  これで、少しでも。彼が重荷を軽くしてくれるといいのだけれど。  彼の顔を覗き込んでそう言えば──見開かれた目は、据わっていった。 「そうか。──もう、我慢しなくてもいいんだ」  がたり。急に立ち上がったために、椅子が大きな音を立てる。それに構うこともせず、二階堂くんは俺に向き直った。何事かと思う間もなく、その薄い唇は開かれて。 「田山先輩。好きです。他の誰よりも、貴方を深く愛しています」  言葉を失う。あまりにも熱烈な愛の告白に、俺は一瞬思考が止まった。 「先輩、僕は……貴方のためなら、なんでも差し上げたいんです。父や母は色恋沙汰などくだらないことに現を抜かすな、と何度も何度も口うるさく言っていましたが……ああ、とんだ戯言でした!」  しかし、その言葉の節々に不穏な空気が立ちこめる。これがただの可愛らしい告白だったらどんなにか良かっただろう。  歪んだ口の端には狂気が浮かんでいる。下がる眦は、いつものような笑顔を作るときのそれではない。 「これほど甘美で切ない感情を教えてくれたのは、貴方だけですから。重圧を、息苦しさを消してくれたのも……だから、だから先輩。僕にできることがあれば教えてください。受け入れてください。もっと、認めてください」  間断なく紡がれていた言葉は、不意に途切れて。手をとられる。  見上げた瞳が狂気とともに、どこか切実な色を孕んでいる。 「僕を、褒めてください」  幼い子どものようなそれが、やけに印象的だった。声色も縋るような表情も切実で。俺の手を握るその手が、きゅう、と僅かに力を込める。 「ああ、周りに気に入らない人間は? 見苦しい奴はいませんか? 僕が貴方の視界から消しますよ」 「……ど、どうやって?」 「相手にもよりますが……汚点を探し出し、不利な状況を作ります。こう見えても周りからの信用や信頼は買ってますので。それで大半は自主的な退学に追い込めると思いますけど、無理そうなら──殺します」  なるほど。これは──ヤバい。論理の飛躍が過ぎるだろ、という友人の小言が浮かぶ。それは本当にそう。今なら首がもげるほど同意できる。 「ふふ……たかが高校一年生に、そんなことができるわけないと思いますか? わかりますよ、きっと難しいでしょうね。……だけど、先輩のためならできる気がするんです。絶対に」  強調するように、声に力が込められる。……いつもの二階堂くんではない。それが、酷く恐ろしかった。恍惚に歪む顔を真っ直ぐ見るのも怖くてたまらないのに、視線を動かすこともできない。  ふっと、彼が微笑む。 「……ふ。少しだけ、おかしくなってしまったみたいです。だって先輩の怯えた顔すら、酷く可愛らしく思えるんです」  狂気に自覚があるのに、止めてくれない。止められないのだろう。 「貴方のためなら、禁忌にも手を染められる。自信をくれた──運命の人」  ねえ、と間延びした声が図書室に落ちる。 「教えてください。何をして欲しいですか」  何をして欲しいか、だって。俺が望めば、きっとどんなことでも叶えてくれる。そう宣言していた通り、嫌いな人間だって傷つけるだろう。どんな行動も厭わない。  なんて、危うい子なのだろうか。 「……やめて。俺は誰かを傷つけるのなんて望んでない」 「なら、僕にできることは……」 「二階堂くんにしてもらいたいことは無いよ」  きっぱりと言い切る。覚悟とともに。目を逸らすこともなく言えば、不思議と伝えるべき言葉が浮かんでくる。  そうだ。もともと、彼に言おうと決めていたのだ。 「──ねえ、二階堂くん。君は、俺に尽くさなくてもいいんだよ」  そこまでする必要はない。  そう伝えたかったのだが──彼の表情はみるみるうちに絶望の色に染まっていく。 「うそ、だ」  震える声。へたり、と力が抜けたように床に座り込んでしまう。慌てて立ち上がらせようとしたが、俺の言葉が耳に入っていないように、ただ声を発した。 「嫌だ。ごめんなさい、捨てないで、お願い、お願いします、貴方に見放されたら、僕はもう──」  生きていけない。  震える唇から、零れた言葉。それは酷く悲痛な響きを持って。 「僕の命だって、捧げられます! なんでもいいんです、僕にできることは……!!」 「……捨てないよ。見放したりもしないから、落ち着いて」  しゃがみ、背中を一定のリズムで叩く。焦りの色は消えないが、混乱はどうやら落ち着いたようだった。 「あのね。俺は一方的に何かをしてもらう、みたいな関係性じゃなくてさ。もっと、君と対等でいたいよ」  尽くされるというのは、どうも落ち着かない。自分はそれに値する人間ではないと思えてしまって。 「……それ、は……」 「付き合ったりはできないけど──友だちとして一緒にいよう」  微笑んでそう言えば、彼はゆっくりと唇を開く。 「僕がなにかをするんじゃ、なくて。対等、に?」 「そう。友だちってそうでしょ?」  ──友だち。小さく繰り返す彼に、俺はまた続けた。 「俺は、君のことをすごいと思ってる。結果だけじゃないよ、努力をいっぱいしてるところも含めてね」  そうだ。もともと彼は図書館でひとりで黙々と勉強をするくらい努力家なんだ。出会ってたった数日しか経っていなくとも、俺はそれを知っている。  目を丸くしたまま。瞬きを忘れたように言葉の続きを待つ彼を、俺は見つめ返す。 「君のことを認めて、尊敬して、褒めるよ。別に、二階堂くんがそうしてって言ったからじゃない──俺がそうしたいんだから」 『僕を、褒めてください』  彼の本音はそれだ。俺が好き、というのも──恐らくは、いくら努力しても、結果を出しても。欲しい反応を返してくれない親の代わりだ。  すごい、と賞賛する相手が見つかったために、ほんの少し依存しそうになっているだけなのだ。努力家である一面とともに、親に認められない懊悩も、悔しさも、断片的ではあるがわかったつもりだ。 「……そんな関係性じゃ、だめかな」 「──い、え。いえ……むしろ、ありがとうございます…………」  鼻をすする音。酷いことを言ってしまっただろうかと狼狽する俺に、「ごめんなさい、嬉しくて」と。二階堂くんが目元を拭う。  あの、と。掠れた声で、おずおずと彼は言葉を発した。 「……先輩さえ良ければ。また、放課後に……どこかに連れて行って、くれますか」 「うーん」 「……っ、すみま、せん。過ぎたことを……」 「そうだね。今はちょっとあれだから──」  にっと笑う。 「テストが全部終わったら、この前言ってたゲーセン行こうよ。約束してたしさ」 「……!! っはい!!」  目尻に浮かんだ涙を拭って、晴れやかに笑う。その笑顔は、いつもよりずっと年相応に見えたもので。そのいじらしさに、俺も微笑んだ。  両親からの重い期待だったり、自分に課してしまうハードルの高さだったりで苦しいときもあるだろうが──自分ができることならば少しでも楽にしてあげたい。彼の友人として、そう思うのだ。  彼が落ち着くまで、俺たちは図書館の床に座り込んで。現状に、顔を見合せて笑うのだった。 「ああ、先輩、先輩……この胸を割いて、脈打つ心臓を捧げたい。貴方のためになんでもしたい……優しくて、温かくて……。……貴方さえ、望めば……」  *** 「……じゃ、アイツは特にヤバいやつじゃなかったんだ。文月のこともあったし、心配してた」 「……うーん、まあ……あのゲームに出てきそうな感じではあったけど……」 「じゃあヤベー奴じゃねーかよ!!」

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