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第1話
電灯なんていらない。
日が燦々と降り注ぐ外庭へと続く、この長い廊下が、図書室へとつながっている。
毎朝、ここを通るのが好きだ。
晴れた日には、空の青が透けて見える。
雨の日には、雫が静かに窓を伝っていく。
その変化を眺めるたびに、まるで一枚の絵画を見ているような気分になる。
今日は、良い天気だ。
空を仰ぐと、小さな鳥が「ぴぴぴ」と短く鳴いて、朝の挨拶をくれた。
廊下の突き当たりにある図書室のドアを開ける。誰もいない図書室の更衣スペースに入り、チルはそっと扉を閉めた。
私服のシャツの上から、制服を羽織る。
裾は長く、足首まで流れるように落ちる柔らかな生地。落ち着いた灰青色で、肩にはさりげない刺繍が施されている。
動きやすさより、佇まいの美しさを大切にしたつくりだ。袖を通すたび、背筋が自然と伸びる気がする。
シャツの襟を整え、ズボンのしわを軽く手でなぞると、制服の裾がふわりと揺れた。
扉の外では、まだ静かに朝の陽が差している。小さく息を整え、図書室の空気の中へ一歩踏み出した。
チルの務めは、王宮図書室の司書。
そこには、貴族たちの家系図や古い法律文書、さらには国家機密に関わる記録まで、幅広い資料が保管されている。
だが、並ぶ書物はそれだけではない。
役人や貴族だけでなく、厨房の料理人、庭師、侍女たちからも、日々さまざまな依頼が寄せられる。それに応えるための本も、図書室には豊富に揃っていた。
毎日のようにチルのもとには、さまざまな依頼が届く。
依頼は直接ではなく、王宮内の「私書箱」に託される。それをチルが一つずつ回収し、必要な資料を探し出し、丁寧に整理しながら、依頼主のためにまとめ上げていくのだった。
「法律について調べてほしい」
「祝宴で使われた料理の記録を探してほしい」
「子供に読み聞かせるための本、何かいいものある?」
そういった一つひとつの細やかなリクエストにも、チルは決して手を抜かなかった。
必要に応じて書物を探し出し、参考資料をまとめ、あるいは最適な一冊を選び、時にはアドバイスも添える。
図書室は、チルにとってただの本の倉庫ではない。ここで集め、繋ぎ、届ける知識は、王宮という世界を支える大切な血脈なのだ。そう信じて、チルは一冊一冊に心を込めて応えていた。
だから、この図書室は、いつも静かな静寂に包まれている。チル以外、この場所に長く留まる者はほとんどいない。静かに、本と向き合い、必要な者に知識を届ける。それが、この部屋の役目だった。
____少し前までは。
ここ最近、その静かな日常が、ゆっくりと変わりはじめている。
最初に訪れたのは、側近を伴ってだった。
それがいつの間にか毎日になり……ついには一人で現れるようになった。
決まった時間になると、仕事中でもソワソワしてしまう。自然と背筋が伸びて、気づけば、入り口に視線が向いている。
……今日も、そろそろ来る頃だ。
その時、図書室のドアが、静かに音を立てて開いた。
姿を現したのは今日も一人のようだった。
チルはすっと立ち上がり、深く一礼する。
この人こそが、新たに即位した国王、ジーク陛下である。
王は一瞥もくれず、まっすぐに奥の書庫へと歩いていった。その背中を、チルはそっと見送る。
滞在時間は、ほんのわずか。
恐らく、一時間もいない。
けれどその短い時間が、息が詰まるほどの緊張で満たされている。それが、ここ最近毎日繰り返されているのだった。
チルの仕事は、依頼に応じるだけではなかった。書物の整理に始まり、古文書の複写や、傷んだページの修復まで、多岐にわたる作業を手がけていた。
細かい作業を丁寧にこなすのは得意で、この仕事に誇りと静かな満足を感じていた。ひとりで静かに過ごす時間は、何より心地よかった。
__あの人が、来るまでは。
王が静かに退出した。
扉の閉まる音が、図書室の空気を元に戻す。
「……ふう」
チルは、そっと小さく息をついた。
やっと、呼吸ができる。そう言った方が正しいかもしれない。
ようやく仕事に集中できる、と指先を動かしかけた、そのとき、
「パサッ」と、紙が落ちる乾いた音が背後から届いた。
振り返ると、床に数枚の紙が散らばっていた。先ほど、王が手に取っていた書物の一部だ。本というより、古びた綴じ紐に束ねられたペーパー。緩んだ紐から滑り落ちてしまったのだろう。
チルは静かに立ち上がり、床に落ちた紙にそっと手を伸ばす。指先で角をつまみ、慎重に持ち上げると、かすれた手書きの文字が目に入った。
「……やっぱり」
思わず、誰にも聞こえないほどの小さな声が漏れる。王が手にしていた書物には、ある共通点があったのだ。
それは__教育と文化を重んじ、身分による差別をなくすという、まるで未来の設計図のような国家像を描いたものだった。
とはいえ、それは正式な書物ではない。誰かが手書きで残した草案のようなものばかりで、表紙もなく、破れたページや褪せた文字も多い。それらは図書室の奥深く、通常の目録には載っていないような場所に点在していた。
チルは思った。
王はきっと、それらの断片を一つひとつ拾い上げようとしているのだ。この、膨大で誰も踏み入れない空間の中から。
今のこの国では、身分によって教育の機会や職業の選択肢が大きく偏っている。
貴族たちは血筋や階級による統治を好み、王室の中枢もまた、貴族たちで固められていた。
近頃では、新たに即位したジーク王に反発する貴族の動きがあるという噂も耳にするようになった。
けれど、王が探しているその草案には、誰もが平等に教育を受け、自由に道を選べるようにするための、いくつもの小さなヒントが記されていた。
数年にわたり、図書室で静かに働いてきたチルであれば、その断片がどこに散らばっているのか、すぐに思い当たる。
王が求めているものは……。
そう確信したチルは、埃をかぶった棚の奥から、一枚、また一枚とペーパーを集めていった。
丁寧に修復を施しながら、まるでそれが彼自身に課された使命であるかのように、ひとつの未来を形にしていった。
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