2 / 36
第2話
そろそろ、またあの時間がくる。
王が現れる、その瞬間だ。
今日こそは……と、チルは胸の内で小さく息を整えながら、机の引き出しに目を落とした。
王が手にしていた書物には、ある一定の共通点がある。ばらばらに散らばっていたそれらを、チルはひとつひとつ集め、一冊の本として静かに修復していた。王が来たら今日こそはそれを渡そうと決めていた。
けれど、庶民である自分から、直接王に声をかけるなど本来あってはならない無礼だ。誰かに見られでもしたら、罰せられる可能性だってある。
けれど…王は、いつもひとりで来る。
そして、あの書物を必要としている。
その確信だけは、チルの中で静かに強くなっていた。
カタッ。
控えめな音を立てて扉が開いた。
あの人が、今日もゆっくりと、静かに姿を見せる。
チルはすっと立ち上がり、深く頭を下げた。けれど今日も王は何も言わず、まっすぐに書庫の奥へと進んでいく。
今しかない。
震える指先が、本の背に触れた。
まるで、その重さが王の存在そのもののように思えて、一瞬ためらう。
「……へ、陛下。こちらを……お探しでは」
心臓が止まりそうだった。「こちらを……」と言うだけで、精一杯だった。
王はぴたりと足を止め、無言のまま、静かに振り返りチルの手元を見た。
その後ゆっくりと、瞳がまっすぐにチルを射抜いた。
「……それを、どこで」
低く抑えられた声。
怒りでも、戸惑いでもない。
ただ、そこには確かな興味が滲んでいた。
◇◇◇◇
広い図書室の中央には、十数人ほどがゆったり座れる大きな机が一つだけある。
誰もがそこで本を読むことができるはずだが、今までそこに腰を落ち着けた人は一人もいなかった。
だから、自然とそこはチルの作業台となっていた。書物の修復、分類、古文書の写し取り。そして、依頼される資料作りなど。日々の静かな営みを支える、居場所のような机である。
けれど今日、その席には、チルだけではなかった。
国王陛下が、そこに静かに腰かけていた。チルが修復した書物に目を落とし、時折、立ち上がっては別の関連文献を探しに立ち上がる。そしてまた、席に戻って読みふける。
普段は一時間もしないうちに退出される陛下が、今日に限って朝からずっとここにいる。
緊張は、まったく解けない。
手先はぎこちなく、修復もなかなか思うように進まない。紙を引っ張ってしまったり、インクをこぼしたり。今日はミスばかりだ。
いったい、いつまでいらっしゃるのだろうか…そんなことを考えていたその時、
「……ぐぅ」
小さな音だったが、静まり返った図書室には響いた。
チルのお腹の音だった。
緊張はしていても、お腹は空く。
思えば、今朝はご飯を食べる時間がなかった。昨夜、修復作業に熱中して寝るのが遅くなり、朝はバタバタと図書室に飛び込んできたのだ。
だから、お腹が鳴っても不思議ではないのだけれど。
「……もう昼か」
静かな声が聞こえた。
ハッとして顔を上げると、ジーク陛下がこちらを見ずに立ち上がり、静かに本を閉じた。
恥ずかしさで顔が熱くなる。思わず、立ち上がりぺこりと頭を下げると、陛下は何も言わず、そのまま図書室を出ていった。
チルはその背中を見送ってから、ふぅっと大きく息を吐いて、椅子に深くもたれかかった。
午前中、陛下とずっと一緒にいた。現実とは思えず、しばし呆然としたまま、机に置いた修復道具を見つめた。
また「ぐう」と鳴ったお腹に苦笑し、ようやく鞄からお弁当を取り出した。そろそろお昼にしようと思う。
「……いただきます」
パンに昨夜の残りを挟んだ、ハムと野菜のサンドイッチ。少しの肉とチーズ、それと、みずみずしいイチゴを別の弁当箱に添えてある。
カフッ、とひと口頬張るとハムの香ばしさと野菜の甘みがふわっと広がった。どれも残り物だけれど、毎日少しずつ工夫して弁当に詰めている。そんな風に、ささやかな日々を重ねるのが、チルはけっこう好きだった。
今日はとんでもない日だ…そう思いながら、二口目をかじろうとした時だった。
カタッ。
再び、図書室の扉が静かに開いた。
「……一緒でもいいか?」
「は、は、は、はいっ! どうぞっ!」
慌ててお弁当箱を引っ込めようとしたチルだったが、陛下の手には、小さな包みがあった。
布に丁寧に包まれたそれを片手に、ジーク陛下はまっすぐチルの方へ歩いてきた。
チルの隣の椅子に、音も立てずに腰を下ろす。その場には、言葉はなかった。
ただ、昼の光と静かな気配だけが残った。
ともだちにシェアしよう!

