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第3話
「……君の、それはなんだ?」
「え、あ、これ…ですか。ハムを挟んだサンドウィッチです」
「いや、そっちのやつだ」
ジーク陛下は指先で、チルの弁当箱の隅に添えられた何かを軽く示した。
意外だった。まさか王から話しかけられるとは思わなかったし、その話題が弁当の中身とは。
「えっと……あ、チキンです」
「チキン……ローストしたようなものか?」
陛下の声はどこか淡々としていたが、その視線は弁当に釘付けになっていた。どうやら本当に興味があるらしい。貴族の王は、庶民の家庭料理に興味津々なようだ。チルは少し驚いた。
「あ、えっと、チキンを塩漬けにしたものです。…けっこう美味しいです」
説明しながらも、チルの心臓は跳ね上がるばかりだった。まさか王と、こんな会話をする日が来るなんて。
「えっと……あの……おひとつ、いかがですか?」
差し出した指先が小さく震えた。今さら引っ込めることもできず、ただ祈るように差し出すしかなかった。
無礼を承知である。
だが、あれほど見つめられては「どうぞ」と言わずにはいられなかった。
昨日の残り物だし、王の口に合うはずがない。それに、本来なら…いや、ましてや国王陛下ともなれば、誰かが毒味をしてからでなければ、軽々しく口にするなんてことは、きっと許されないはずだ。
けれど、そんなことを気にする余裕はなかった。ただただ、今この瞬間の異常な空気に、チルの思考は追いつけていなかった。
「ありがとう…」
そんなチルの緊張をよそに、ジーク陛下はヒョイとチキンを摘み、豪快に一口で頬張った。
どこか予想外な仕草だった。もっと慎重に食べるものだと思っていたからだ。
表情は相変わらず読み取りにくい。だがその口元がわずかに緩んでいるのが見える。
まるで、ほんの少しだけ楽しんでいるような…そんな気配がした。
もしかして…思っていたより気さくな人なのかもしれないと、チルがぽかんとしていると、陛下は口の中をゆっくりと嚥下してから、こちらを向いた。
「……うまい」
その言葉とともに、陛下がふっと笑みを浮かべる。
その一瞬。
チルの心臓が、まるで弦を弾かれたように跳ね上がった。
思わず言葉も出ず、コクコクと頷くだけで精一杯だった。
「……そっちのはなんだ?」
陛下が再び顎で示したのは、弁当箱の隅に添えられたイチゴ。艶やかで水分をたっぷりと含んだ赤い果実が、いくつか転がっている。
まさか、イチゴを知らないのだろうか…と、驚きはあったが、表に出さず、チルは丁寧に説明した。
「これはイチゴと言います。甘くてみずみずしいフルーツです。特に、赤く熟れたものが…」
「ああ、イチゴか。それは知ってる」
チルの言葉を遮るように、陛下がぽつりと言った。
「……そうか。色が、黒くてよくわからなかった。きっと、これは真っ赤に熟れているんだろうな」
チルの心臓が、静かに音を失った。思わず息を止め、陛下の横顔をじっと見つめる。
目の前の果実が赤だという認識が、陛下の中にはない。「黒くてよくわからなかった」というジーク陛下の一言に、チルは静かに息を呑んだ。
これまでに陛下が手に取ってきた書物。その選び方、目を留める図表や図版。何気ない行動のひとつひとつに、ほんのわずかに感じていた違和感。
やっぱりそうだった。ジーク陛下は色が見えていないのだろう。
だが、そのことを陛下自身が口にするとは思わなかった。
言葉にはしなかったけれど、チルの中で何かが音もなく結びついた。
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