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第4話
予想外の方向に進んでいる。
「色がわからない」と王自ら口にした、あの日。それをチルが言葉もなく受け入れた翌日からも、国王陛下は毎日のように図書室へ足を運ぶようになった。
その滞在時間は日に日に長くなり、やがて政務の一部をこの場所でこなすようになったらしい。文官が届ける書簡に目を通し、印を押す姿も、今では当たり前の光景となっていた。
午前中から一緒に過ごすのが日常となり、昼食もごく自然に共にするようになった。
「チル……食事にするか?」
静かな声で名を呼ばれ、「はいっ!」と、少し裏返った声で返事をする。
君の名前は?
そう尋ねられたのは、あの時、ジーク陛下が熟れたイチゴをぽいと口に放り込んだ直後だった。名乗ったときのことは緊張で朧げだが、それ以来、陛下はごく自然に「チル」と呼んでくれるようになった。
その翌日も、陛下は当たり前のように図書室に現れ、チルの弁当を覗き込んでは、興味津々に質問を投げかけてきた。
自然と、チルの弁当は一人分から二人分に増えていた。最初はおかずを多めにする程度だったが、今では完全に「陛下のための弁当」を用意している。
「今日は……たまごのサンドウィッチか? いや、違うな」
「ツナサンドというものにしてみました。陛下のお口に合えばよいのですが…」
「ツナか……久しぶりだな」
陛下は目を細め、大きな手でパンを包むと、豪快にかぶりついた。
「……うまいな」
その素直なひと言に、チルの胸がじんわりと温かくなる。
横目でその姿を見ながら、陛下の体格では今日の量でも少し物足りないかもしれないと思い、次はもう少し大きめに作ろうと心に決めた。
「チルは、パイを食べたことがあるか?」
「……パイ、ですか? 名前は聞いたことがありますが、食べたことは……」
「サンドにちょっと似てるかもな。パイは挟まないけど、中にいろいろ入れて焼くんだ。肉もあれば、甘い果物のパイもあるぞ。今度、持ってくるか」
会話は日に日に増えていき、それとともに陛下も、チルに何かを持ってくるようになった。
砂糖漬けの果物、蜂蜜がかかったチーズのケーキや、チョコレートと呼ぶ甘くて美味しいもの。この前はシャーベットと呼ぶ珍しい氷菓子だった。
木イチゴの果汁からなるシャーベットは、すぐに溶けてしまうため、政務の合間に、こっそり二人で食べることになる。チルが恐縮して遠慮すると、陛下はいたずらっぽく笑って言った。
「溶けてしまうぞ。内緒で早く食べよう。ここで食べてるのがばれたら、二人とも怒られるからな」
まるで子どものような表情に、チルは思わず笑ってしまう。
そんなふうに、食べ物の話から始まり、好きなことや気になることなど、とりとめのない話が、昼食と一緒にぽつぽつとこぼれ始めた。
最初こそ、チルは緊張していた。無礼があったらどうしようと、何かとビクついていたが、国王陛下は意外にも気さくで、ざっくばらんな性格のようだった。細かなことにはこだわらず、柔らかい空気をまとっている。
昼のあいだは、自然と肩の力が抜け、気づけばリラックスして話していた。
意外な共通点が見つかったり、全くなかったり。王から聞く話は、どんな話もどこか面白くて、会話は弾み、時に声をあげて笑い合うことさえあった。
「チル、あまり大きな声で笑うと、誰かに知られて、俺はここから連れて行かれてしまう」
そう真剣な顔で言う陛下が可笑しくて、チルはさらに笑いをこらえる羽目になる。
ふざけて軽口を言われる頃には、チルにとってジーク陛下は、もはやただの王ではなくなっていた。
__色のない世界に生きている。
すべてがモノクロに見えるのだと、陛下はかつて静かに語っていた。
それでも彼は、チルの手作り弁当をいつも嬉しそうに、時には子どものような無邪気さで頬張っていた。
安定した日々の中、チルは王の姿を横目に見ては、背後に積まれた仕事の書簡を気にしつつ、黙々と図書のページをめくっていた。
ある日、王族の色覚に関する古書を偶然見つけた。そこに記されていたのは、「先天的な遺伝によるもの」という記述。きっとジーク陛下も、その例に漏れないのだろう。
昼食が終わると、それぞれの作業に戻るのがいつもの習慣だ。
チルは、見つけた古書を元に修復作業を進めていた。虫に喰われたページを補い、消えかけた文字を写し直し、記録としてまとめ直す。手元には、数百年前の色覚に関する記録が広がっている。
ふと、王の影が近づいた。ページの上に、控えめに落ちる影に気づいたチルが顔を上げると、ジーク陛下が隣に立っていた。
「……色覚の本を直しているのか?」
「……は、はい。古いものから順に、損傷の激しい書物を修復しています」
一瞬、言葉をためらったのは、相手がその当事者だからかもしれない。けれど、これは間違いなく自分の職務だ。胸を張って答える。
ジーク陛下はほんの少しだけ視線を落とし、目の前の本に目を通した。そして静かに、一言こぼす。
「……私も、昔は色が見えていた」
その言葉に、チルの手が止まった。
陛下の声は淡々としていた。
けれど、その響きには、遠くの景色を思い出すような色がにじんでいた。
ページの上に落ちた影の輪郭が、ほんの少しだけ揺れて見えた気がした。
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