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第5話
成人に近づくにつれ、少しずつ色が奪われていったのだと国王陛下はいう。
今、王の世界は、モノクロだけで構成されている。
「色は見えないけど、物には濃さや薄さがある。それに…昔、見た記憶があるから。だから、これはきっと、こんな色だったんだろうなって思い出すことはあるよ」
まるで他人事のように、淡々と陛下は語る。そう、国王陛下は以前、イチゴを見て確かにこう言っていた。
『色が黒くてよくわからなかった。きっとこれは真っ赤に熟れているんだろう』と。
イチゴが赤いということを知っているのは、きっと過去に本当に赤を見た記憶があるからだ。その言葉の意味が、今ようやくチルの中で静かに繋がった。
「陛下は……」
本来、意見を口にする立場ではない。
けれど、どうしても何かを言いたくなって、思わず声が漏れる。
その時、
「ジーク、な」
陛下が少し口元を緩めて笑った。最近、よくそう言うようになった。「陛下と呼ぶのは、正式な場だけでいい」と。
チルは、小さく頷いて、言い直す。
「……ジ、ジーク様は……」
声が少し震えたのは、どこかこの会話が、自分の中で特別なものになりつつあるのを自覚したからかもしれない。
「ジーク様は、色が見えていた頃の世界を、恋しいと思いますか?」
その問いに、図書室の空気がふと止まったような気がした。
陛下は、しばらく何も言わなかった。静かにチルの隣に座り、背をもたれさせて、窓の外に目を向ける。
陽の光がうっすらと差し込む午後。
木々が揺れ、影が微かに床をなぞる。
「……どうだろうな」
やがて低く落ち着いた声が返る。
「懐かしいとは思う。けど、恋しいかと言われると、少し違うかもしれない」
チルは黙って、そっと目を伏せた。
その言葉に含まれた、言い切れない何かを感じたから。
「たしかに色があった頃は綺麗だった。だけど、見えていた頃は、見えていたことで、気づけなかったことも多かった気がする」
「……気づけなかったこと、ですか?」
陛下はほんの少し笑った。声にならない微笑み。
「たとえば、人の声の温度とか。君の弁当の匂いとか。紙の手触り、インクの濃さ、物の重さ。色を失ったあとで、それらが随分と豊かに感じられるようになった」
チルは目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
「だから……恋しいというよりは、ありがとう、かな。色があった世界にも。そして、色のない今にも」
優しい答えだった。
けれど、喉の奥がつかえたように熱くなる。チルは黙って、そっと本を閉じた。
そのページに書かれていた文章も、王の言葉も、胸の奥で混ざり合って、形にならずに残る。
席に戻った陛下が、ふっと空気を変えるように口を開いた。
「チルが修復してくれたあの書物、役に立ったぞ。来週から、新しい顔ぶれが加わることになった」
顔を上げた瞬間、柔らかな笑みをたたえた王であるジークの瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
ジークが図書室で静かに調べていたのは、古い王政の記録だった。その古文書の中にこそ、ジークが進めようとしていた改革の鍵が眠っていたという。
今の国政には、長年にわたり貴族たちによって封じられてきた制度や慣習が、いまだに数多く残されている。
貴族だけが優遇され、庶民は取り残されたまま。その格差は、もはや見過ごせないほど深刻なものとなっていた。
格差が広がれば、この国の美しい文化も、人々への教育もやがて途絶えてしまうだろう。偏りとは、そうして静かに、確実にすべてを蝕んでいくものだ。
このままでは、国の内側からじわじわと格差が広がり、いずれは国そのものを崩してしまう。ジークはそう確信していた。
窓の外に目をやるその横顔には、どこか静かな焦燥と、決意が滲んでいる。玉座に座していても、彼はその重みに甘んじることがない。誰よりも早く現実を見つめ、誰よりも深く国を思っている。
「もっと自由に。もっと平等に。美しく、強く、豊かな国を未来へ繋げるために……そのためには、まず王室から変わらなければならないんだ」
王となって以来、ジークが強く抱き続けている想いだった。
貴族だけで固められた王政に風穴を開けるためには、民の中に眠る「才」に目を向け、そこに光を当てる必要がある。そう彼は考えていた。
古い記録には、かつて一度だけ、ある王が庶民の中から才ある者を登用したという記述が残されていた。
その王もまた、ジークと同じく、色を失った者だった。
「色を失ってから、物の気配や温度、音の微細な変化に敏くなった。…だからこそ、見えにくい才にも気づけたんだろうな」
ジークはぽつりと呟く。
チルはその言葉に、胸の奥がほんのりと熱くなるのを感じた。
色が見えないということは、ただ不自由で孤独なことだと思っていた。けれどジークは、それを別のかたちで力に変えようとしている。
「ジーク様は、その王のように…」
思わず零れた問いに、ジークは目を細めて笑った。
「なれるかどうかはわからないけどな。でも、やらない理由はないだろ?」
ニヤッと笑うその顔は、どこか少年のようだった。
貴族たちからの反発は予想以上だったという。それでもジークは、議会に封印された提案を持ち込んだそうだ。
__階級を問わず、才ある者を登用する制度の導入。
「簡単にはいかなかったけどな…」と、ジークは肩を竦めて笑う。
幾度となく交わされた議論と、いくつかの妥協の末、ついにその法案は可決された。
「だから…来週から、庶民の中から試験で選ばれた者たちを、実際に王室に迎えることになったんだ」
チルが顔を上げると、誇らしげに微笑むジークの姿があった。
その背には、大きな窓から射し込む朝の光がまっすぐに伸びていた。
それはまるで、色のない世界に初めて射し込んだ、ひと筋の希望の光のようだった。
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