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第6話

王の言葉通り、週が明けた途端、王室には新しい人々の活気が満ちていた。 「王室で働けるなんて夢みたい!」 「今日からよろしくお願いします!」 あちこちから、そんな弾む声が聞こえる。チルの好きな図書室へ続く廊下も、すれ違う人々の笑顔であふれ、まるで別の場所のように明るく感じられた。 挨拶を交わすのも、なんだか楽しい。声をかければ返ってくる、あたたかな言葉たち。そんな景色の中で、廊下に差し込む陽の光までもが、どこか嬉しそうに見える。 けれど、図書室に一歩足を踏み入れると、そこだけは静寂が保たれていた。外のざわめきとは別世界のように。 ………今日も、王の姿はそこになかった。 先週までは、午前中から毎日顔を見せてくれていたジーク陛下。けれど今週は、昼前に一瞬だけ現れることがある程度で、食事も一緒にとれない日が続いていた。 「すまない。昼はここで食べられそうにない」 そう言ったときの、少し寂しげな目。 その表情が、何度も心に浮かぶ。 「わかりました」 そう笑って返したけれど、心のどこかで『今日こそは』と淡い期待がどうしても消せない。だからチルは、今日も弁当を二人分作ってしまう。 今日は、ジークが「好きだ」と言っていたスープを作った。 大きな鍋でコトコトと音を立てながら煮込んでいた。塩漬けの肉に、ほくほくの豆、甘みのある人参とじゃがいも、セロリや玉ねぎも細かく刻んでたっぷり入れる。香辛料をほんの少し効かせた、チルなりのアレンジ。以前この味を出したとき、ジークは「これ、パンに合うな」と目を細めて、スプーンを止めることなく食べていた。 「あれ、また食べたいって言ってたよね…」 たった一言を拾っただけで、こんなに浮かれてしまう自分が、少しだけ恥ずかしい。 でも、ジークの「うまい」って笑う顔が、たまらなく好きなのだ。 今日も来なければ、一人でこの大きな弁当を食べなければならない。そのことが、ほんの少し、胸に刺さる。 柱時計の針が、もうすぐ昼の12時を指そうとしている。そのたびに「今日も来ないのかもしれない」と胸の奥がささやいて、何度も時計を見てしまうのが、最近のチルの癖になっていた。 「……残りは、夜ごはんに回そうかな」 そうぽつりと呟いて、チルは小さなため息をこぼした。 わかっている。 今は、ジークにとって大事なときだ。 新しい風を入れて、国を変えていく。 その最初の一歩だということも。 それでも、どうしようもなく会いたくなるのは、なぜだろう。 友達でも、恋人でもない。約束を交わしたわけでもない。ただ…あの穏やかな昼の時間が今も胸の奥にあたたかく残っている。 「……変だな」 首をかしげながら、修正を終えた本を抱えて立ち上がる。ソワソワと落ち着かない気持ちのまま、チルは書庫の奥へと歩いた。 本を戻そうと見上げた棚は高すぎて、チルの背では届かない。 ハシゴを使うしかない。けれど、あれは大きくて重くて、いつも動かすのがひと苦労だ。仕方がないと唸りながら、ハシゴをゆっくりと押し始めた、そのとき、 「……チル? いないのか?」 図書室の入口から、聞き慣れた声が響いた。 その瞬間、チルの心が跳ねる。 振り返ると、確かにジークの声がした。 心臓がさらに跳ね上がる。名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなるなんて。 「ジ、ジーク様……!」 その声を確かめたくて、チルは思わず小走りで駆け出していた。 広い図書室の中、なかなかたどり着かない。けれど焦る気持ちが体を前へ押し出して、転びそうになりながらも走り続ける。 「ジ、ジーク様っ!」 その名を、大きな声で呼んだ。願うより先に、足が勝手に動いていた。 会いたい…顔を見たいという気持ちばかりが先走って、足がもつれそうになる。その瞬間、制服の裾を踏んでつまずいた。 「わっ――!」 「っと、危ない!」 ふわりと、強い腕が支えてくれた。 チルの身体が、ジークの胸にすっぽりとおさまる。 「ははっ、そんなに慌てて……大丈夫か?」 何か言わなきゃいけないのに、うまく言葉が出てこない。ただ顔が熱くて、声もふるえて、ジークの胸元から顔を上げられなかった。その優しい声に、チルの胸がぎゅっとなる。 「ジーク様…っ、だ、大丈夫です! あ、あの……も、申し訳ございません」 「ああ、頬が……ほら、赤くなってるぞ。暑かったか?」 ジークの指が、チルの頬にそっと触れる。 その手のぬくもりに、思わずびくりと肩が揺れた。 「……え?」 ジークの表情がふと変わる。目を見開いたあと、驚いたように言葉を漏らした。 「今、一瞬だけど……赤く見えた気がした。チルの頬が…」 その一言に、チルの目が見開かれる。 「ジーク様……もしかして……!」 「いや、きっと勘違いだ。……ただ、チルが一生懸命だったから、そう思えたのかもしれないな」 言葉をそらすように言い、そしてジークは包みを差し出した。 「これを、持ってきた。チルに渡したくて」 差し出された包みは丁寧に包まれていて、ジークの手の温もりがまだ残っていそうだった。包みのぬくもりと、会いたかった人に触れた安堵が胸を優しく打つ。 ……会いに来てくれた。 そう思うと、胸がいっぱいになる。 突然の贈り物に、チルは目を丸くしながらも、ジークが差し出した包みを開くと、両手にちょうど収まるほどの箱が出てきた。 木のぬくもりが残る丁寧なつくりで、蓋には小さな金の留め具がついている。 チルがそっと開けると、そこには色とりどりの小さな粒が並んでいる。赤、青、黄色に白、ほんのり透けていて、光が当たるたびにキラキラと輝く。 「……これ、何ですか?」 「シュガーボンボンっていうんだ。外は砂糖で固めてあって、中には、ハチミツや果汁が詰まってる。噛んだ瞬間、甘さが広がるよ」 チルは一粒、赤いものをつまんで、そっと口に含む。カリッ、と軽い音がして、すぐにとろりとした甘さが舌に広がった。 「……っ、すごい…おいしい! これ中からとろけてきて……!」 「だろ? ちょっとずつ食べるといい。ひと粒ずつ」 チルは驚いたようにジークを見上げた。まるで本当に宝石を舐めているようだった。 甘さは優しく、でも芯があって… まるで子どもの頃に戻ったような気分になってしまう。不思議な感じだ。 「こんな…初めて見ました。色も、味もきれいで、なんだか夢みたいです」 「君は甘いものが好きだろ?珍しく手に入ったから。だから、どうしても渡したくて」 チルはもう一度、箱の中の小さな宝石たちを見つめる。指先でつまんだ白いボンボンが、ほんの少し、手の熱で溶けかけていた。 「……もったいなくて、食べられません」 「でも、食べなきゃ味わえないだろ?」 ジークが笑う。 チルの胸の奥で、甘い蜂蜜よりもっと甘いものがとけていくようだった。 「そ、そうだ。ジーク様、お昼ご飯は…」 思い出したようにチルが声をかける。声は少し上ずっていて、どこか緊張しているのが自分でもわかる。 ジークは不意を突かれたように目を瞬かせたあと、少しだけ肩をすくめて微笑んだ。 「……あ、まだだった。最近は忙しくて昼を抜くことが多いから、つい忘れてしまうんだ」 「あの、よかったら食べませんか?今日はたくさん持ってきているので」 チルの言葉に、ジークは少し目を細めて頷いた。その表情はどこか柔らかく、仕事の場で見せるものとは違う、穏やかな空気を纏っている。 「ありがとう。時間がなくて慌ただしいけど、いただくよ。君の料理は久しぶりだから楽しみだ」 「きょ、今日はスープです。以前作ったものと、同じなんですが……」 チルは少し恥ずかしそうに包みをほどく。 ジークの前に小さな布を広げ、丁寧に詰められたお弁当箱を並べていく。 蓋を開けると、ふわりと立ちのぼる香り。 塩漬け肉と豆、刻んだ野菜が柔らかく煮込まれたスープは、どこか懐かしく、温かい。 「おおっ……これは」 ジークが思わず声を上げる。チルは、その反応にほっと胸をなでおろした。 「スパイスを入れてます。ジーク様が、パンに合うって言ってくれたので」 「…そうだったな。よく覚えていてくれた」 二人の間に、ふと静かな時間が流れる。スプーンが器に触れる音、スープをすする音、それだけが小さく響く。 外では遠く風が草を揺らし、鳥の声がどこかで響いていた。 ジークがスープを味わいながら、小さく頷いた。 「……相変わらず、うまい。いや、もっと美味しくなっている気がするな」 チルは照れたように笑いながら、そっと目を伏せた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。 こんなふうに、ジークと二人きりでご飯を食べられる時間をどれだけ待ち望んでいたことか。 久しぶりのジークとの時間。夢のようで、でも確かに手の中にある。二人だけのかけがえのない昼下がりだった。

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