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第36話【番外編ジーク3】

最愛と呼べる人が、今、腕の中で眠っている。 自分の寝室__いや、今はふたりの部屋となったこの場所に、チルがいてくれる朝。 それがどれほど幸せなことか、本人は気づいているのだろうか。 恥ずかしがり屋で、いつもどこか遠慮がちで、それでいて時折、ふっと無防備に楽しそうに笑う。そんなチルが、こうして素直に身を預けてくるのは、夜と眠りがもたらす小さな奇跡のようだった。 昼間のチルは控えめで愛おしいから、ついからかうと、すぐに顔を赤くして言葉を詰まらせる。だけど、眠っているチルは、まるで別人のように甘えてくる。 くるりと身体を丸めてジークの胸元にすり寄り、気づけば腕を取って抱きしめるような格好になっている。 そんな姿を見せてくれるのは、たぶん無意識だからだ。けれど、それがたまらなく愛しい。だからジークは、動くのも惜しむように、ただその温もりを抱きしめるだけだった。 「……また、こんなに丸くなって」 ジークは声を出さずに微笑み、軽く腕の力を緩める。チルはふわりと小さく寝息を漏らしながら、さらに身体を寄せてきた。 まるで子犬のように、くるりと身体を巻き、額がジークの胸に当たる。 ふと、記憶がよみがえる。 あの夜__初めてふたりで食事をした夜のこと。 酔って赤らんだ頬で、柔らかく笑っていた。それが、可愛くて、どうしようもなくて。チルが眠ってしまった後、抱きかかえて馬車に乗せ、部屋に運び、そのまま隣で眠った夜。 ベッドの中で、チルは無意識にジークに擦り寄ってきていた。 あの時も、こうして腕に抱かれながら、何も知らない顔で、眠っていた。その柔らかい髪に指を伸ばしかけ、口づけたくなる衝動を、どれほどの想いで抑えたか。 ……よくもまぁ、理性を保てたもんだと、自分で自分に呆れるように、ジークは小さく苦笑する。 あの夜はただ、触れられることの尊さに、震えるような気持ちだった。今こうして、すっかり腕の中に収まっている現実が、まだ夢のようだ。 「……チル」 囁くように名前を呼ぶと、チルのまつげがかすかに震えた。うっすらと唇が動き、夢の中のようにぼんやりとした声がこぼれる。 「…ジーク、さま……だめ……おかわり……」 ぽつり、夢の中で呟いたチルの声に、ジークは思わず吹き出しそうになった。 小さく、無意識の寝言。それは、まるで朝の食卓の続きを見ているかのようだった。 「……おかわり?」 クスッと喉の奥で笑いを漏らすと、チルはふにゃっと頬を緩ませ、ジークの胸元にぎゅっと額を押しつける。 「……すき………」 その言葉に、ジークの動きがぴたりと止まった。一瞬、心臓の鼓動が跳ねた気がした。 「……チル……それ、夢で言うか……?」 苦笑しながらも、ジークはほんの少し頬を染めたまま眠っているチルに、そっと唇を寄せる。 寝ている無防備なチルにチュッチュとキスをしていると止まらなくなる。 「……ん……ふふ…ジ、ジークさま……や、です……それ、くすぐ……っ」 寝言とも甘え声ともつかない囁きに、ジークは吹き出しそうになるのを堪えて、そっと指でチルの髪を撫で、またキスをする。 「夢の中だと甘えん坊だな、君は」 まるでその声が届いたかのように、チルの睫毛がふるりと揺れた。少しだけ眉を寄せ、じわじわと意識が浮上してくるのが伝わってくる。 「……ぅ……あれ……?」 かすれた声で呟きながら、チルがそっと目を開ける。まだ夢の余韻が残るようなとろけた瞳が、まっすぐジークを映した。 「……ジーク様……?」 「おはよう。よく眠れた?」 ジークの問いかけに、チルはぽやんとした表情で一瞬考えこむような間を置いたあと、ふいに真っ赤になって顔を隠した。 「……へ、変なこと……言ってませんでしたか……っ?」 「言ってたよ。可愛すぎて目が覚めた」 ジークが楽しげに微笑むと、チルは布団をぎゅっと握りしめて、さらに顔を隠してしまった。 「……ね、寝言…ぅ…ぅっ…」 「起きてるときも、そんな風に甘えて欲しいけどな」 チルはごそごそと身を捩らせながら、なんとか布団から抜け出そうとする。けれど、ジークはそれを優しく引き戻した。 「逃げるな、チル。せっかく目が覚めたんだ。少しだけ、こうしていよう?」 「……っ、そんなこと言われたら……」 チルは小さく抗議しながらも、ゆっくりとジークの胸元に頬を寄せた。 「なぁチル……今日、休みだろ? 朝から市場にでも行って、朝食にしないか?」 ジークは片手でチルの背をゆっくりと撫でながら、もう一方の手で柔らかく髪を梳いていた。 「……えっ!ジーク様も、今日お休み?だったらすぐに…っ!」 その言葉にチルは、ぱっと顔を上げて目を丸くし、慌てて身体を起こそうとする。けれど次の瞬間、ジークの腕がするりと腰にまわり、あっさりとベッドの中へ引き戻した。 「わっ……!? ジ、ジーク様……!」 「まだいいだろ? せっかくふたりとも休みなんだ。もう少し抱きしめさせてくれ」 いたずらっぽく微笑むと、チルは顔を真っ赤にして、されるがままにベッドの中へ戻ってきた。 「……ほんと、君は朝から可愛いな」 囁いた自分の声が、やけに甘くなるのを感じながら、ジークはそっとチルの頬に口づけた。 「市場に行って…その後はどうしようか…」 チルが少しだけ間を置き、ぱっと顔を明るくさせて口を開く。 「あそこに行きたいです。果樹園…!」 ジークは思わず笑みを漏らす。ふたりで一度訪れた、あの静かな果樹園。子どもの頃から、王ではないただの自分に戻れる、大切な場所。 「ははは、あそこか」 「はい……あそこ、好きですよ。ゆっくりしていて、風も気持ちよくて……それに」 「ん? それに?」 チルは少し俯いて、頬を染めながらも、まっすぐジークを見た。 「あそこで……決意しているジーク様を見るのが、好きです」 ジークの胸の奥が、ギュッと鳴った。 決意__ そうか。 見られていたのか。 あの場所で、誰にも見せないはずの自分の芯の部分を。 「……バレてたか。あそこでは、いつも何かを考えてるからな。君のことも、国のことも、全部」 言ってから、そっとチルの手を取る。細くて柔らかいその手を、そっと自分の頬にあてた。 「じゃあ……見ててくれ。君に見られてると思えば、俺はもっと強くなれる」 チルが小さく「はい」と頷いたときだった。ジークは、ゆっくりと顔を近づけて、耳元で囁く。 「でも……もうちょっとこうしていてから、行こうな」 その囁きに、チルがふわりと微笑んだ気がした。 ジークは、そっと額を寄せる。あたたかくて、柔らかくて、守りたくなる存在が、こんなにも近くにいる。 __守ると決めている。この笑顔も、この穏やかな朝も。 誰にも脅かさせない。どれほど困難な道でも、すべてを越えて、この未来を掴み取る。 それが、王としての自分の役目であり、男としての誓いだ。 静かな決意を胸に、ジークはもう一度、愛おしい人を腕の中へと抱き寄せた。 end

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