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第40話

その日、広瀬は帰りに久しぶりに商店街の方を通った。 あの夜の話の後、花沢さんに会いそうなこの道からはなんとなく遠ざかっていたのだが、花沢さんに会って鈴野のために愛海さんのことを聞いてみようと思ったのだ。もしかすると連絡先を教えてもらえるかもしれない。 だが、花沢ふとん店の前に来て、立ちすくんだ。 花沢ふとん店は取り壊されており、土地は更地になっていたのだ。建築看板がたっていて、マンションになる予定のようだ。建築主の名前は花沢さんではなかった。 呆然としていると、「広瀬さん?」と声をかけられた。 振り返ると、『アザミ』の若奥さんが立っていた。 『本日の営業は終了しました』、の看板のまま、若奥さんは『アザミ』の照明をつけコーヒーをいれてくれた。広瀬の分と、自分の分をお盆に載せてくる。 「どうぞ」と出された。そして、彼女は広瀬の正面に座った。 「花沢さん、オーストラリアに行ったのよ」と若奥さんは説明してくれた。「2番目の息子さんがオーストラリアでビジネスをしているんですって。花沢さん、ずっと海外で住んでみたかったからって、お店たたんで、奥様と2人で行ってしまったの。あそこの土地は、手放したそうよ。ああいうふとん屋さんって、もう、流行らないでしょう。みんな、ふとんはホームセンターとか安い家具屋さんで買うし、打ち直しなんてしないから、商売続けても仕方ないって言ってたわ。お子さんたちも跡を継がなかったし」 「そうですか」 広瀬は、金色の縁取りのついたレースのように脆そうなコーヒーカップを手に取った。 ここのコーヒーはいつもまろやかで美味しいが、今日は苦く感じた。 「最近、花沢さんの奥様は、娘さんとか1番目の息子さんとか、親戚の方に会いに行ってたの。花沢さんは残って商売の片付けしてるって言ってたわ。他にもやり残したことがあるからって。あなたたちとここでひそひそ話してたのが、そのやり残したことだったのね」 若奥さんはコーヒーを口にいれる。「花沢さん、楽しそうだったわ。いつも楽しそうな人ではあったけど。町内会長とか他にもなんでも引き受けて。世話好きの人で。うちもずいぶんお世話になったわ。あ、でも、ずっとオーストラリアにいるつもりはないって言ってたわ。飽きたら日本に帰ってくるんですって。そのときには、どこかの高齢者住宅に入るか、ご長男のところに行くかって言ってた。だから、また、会えるかもしれないわね」 広瀬はうなずいた。 「このお店もね、来月閉める予定なの」 「え?」 「このお店、もうずいぶん古いでしょ。子供たちは他所で楽しくしてるし、喫茶店はやりたくないっていうから。この界隈も変わって、お馴染みの人もいなくなったしね。それに、今は、こういう喫茶店よりも、カフェみたいなののほうが流行ってるでしょ。潮時はもっと前だったのを趣味みたいに続けてたけど、やめましょうってことにしたの。この場所は土地開発業者に売ったの。私たち、私の実家のある埼玉に引っ越すのよ」 「そうなんですか?でも」 「ああ、そんなに深く考えなくてもいいのよ。こういうものはね、変わっていくものなの。ふとん屋さんも純喫茶も、文化財じゃないしね。そんなこと思ってやってたわけじゃないし。思い出がいっぱいできて楽しかったわ。広瀬さんたちが来てくれたのもいい思い出」若奥さんは優しそうに微笑んでいた。 店を出るときに「東城クンにもよろしく」と言われた。 広瀬はいつもより深く頭を下げて別れの挨拶をした。

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