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第1話 10年越しの視線
その男が、本店営業部のフロアに現れたのは、四月最初の月曜日だった。
スーツは濃紺、ネクタイは無地のグレー。色味の少ない出で立ちのせいか、ぱっと見では誰も彼が“あの漆原”だとは気づかなかった。
だが唐津涼介は、ひと目でわかった。
──漆原 崇彦。
十年前、浜松支店で指導していた後輩の名前が、すっと脳裏に浮かんだ。
当時の漆原は、地味で大人しく、必要最低限しか話さず、誰にでも無表情だった。だが資料を渡せば即座に目を通し、詰めの甘さを見逃さない。新人らしからぬ静かな鋭さを持っていた。
思い出すのは、ある会議前日の出来事だった。提出された提案書の一文に、曖昧な数値が記載されていた。それを指摘したのは、まだ新入社員だった漆原だった。
「この部分、裏が取れていません。リスク要因が説明不足です」
無表情のまま、唐津に言った。口調は冷静で、感情がこもっていないぶん、余計に刺さった。
そのとき唐津は、カチンときた。
先輩である自分の顔を立てる気など、さらさらないのだろうと。だが、資料を見返せば、彼の指摘は正しかった。
──黙って仕事するくせに、ちゃんと見てるんだよな。
10年前、まだ自分が浜松支店で課長代理だった頃、配属されてきたばかりの新入社員。無口で、真面目で、目立たない青年。だが営業の現場に出ると、驚くほどまっすぐで、臆せず顧客に踏み込む姿に、少なからず驚かされた。
それから時が流れ、漆原は京都支店を経て、今や本店営業第一部の最年少部長。対して自分は札幌で支店長の補佐を経験し、東京に戻ってきて、営業戦略部の部長というポストを与えられた。
誇らしくないわけじゃない。実際、このポジションにいれば営業部全体を見渡せるし、経営との距離も近い。
だが、第一部長の椅子を希望していたのも事実だった。
あれから十年。東京駅丸の内、29階の広いフロア。そのL字型の角をはさみ、片側に営業第一部、反対側に営業戦略部がある。
唐津は営業戦略部の部長席から、遠くにある第一部の島のほうを見やった。
──ずいぶん、大人になったな。
姿勢は相変わらずよかった。いや、むしろ、あの頃よりも背筋が自然に伸びていた。書類を抱える腕に無駄な力はなく、歩く速度も無理がない。長めの前髪の下にのぞく切れ長の瞳は伏し目がちで、表情は淡々としているのに、どこか目が離せない。
派手さはない。スーツもネクタイも、極めてシンプル。だがその選び方ひとつ取っても、彼が何者かを語っていた。着慣れたように静かに着こなし、特別な色を足さずとも、自然と存在感がある。
そして何より、落ち着いている。
まだ三十代前半。最年少部長という肩書に見合わないほど、浮き足立ったところがない。人の目を気にしているそぶりもない。かといって、他者を圧するような気配もない。ただ、そこにいるだけで、空気が変わる。
──なんなんだ、あれ。
と思った瞬間だった。
ふと、漆原がデスクに置いたものが目に入った。
細長いボトル、青のラベル。
──特茶、だった。
(……やっぱ、特茶かよ)
それが妙に目を引いた。
というのも、ここ数日、何度か漆原の手に握られていたのを見かけていたのだ。本人は無頓着そうに無表情のまま飲んでいたが、なぜかトレードマークのようになっていた。
特茶を愛飲するには、漆原はあまりにも細い。薄手のスーツにおさまる身体は華奢で、指も細長く、腕にも筋張った力強さは感じられない。それなのに、なぜか特茶。
アンバランスだった。けれど、だからこそ妙に彼らしかった。
必要以上に飾らない。けれど、手抜きもない。
きっと習慣で飲んでいるのだろう。効能がどうこうではなく、「それを飲むと決めたから、飲んでいる」──そんな姿勢が、なんとなく漆原らしいと思った。
唐津が目を細めたそのとき、部下の本堂が背後から声をかけてきた。
「部長、あれ……新しく来られた第一部の漆原部長ですよね?」
「そうだよ」
「本当にお若いのに、もう部長なんですね。……あの、漆原部長が飲んでる特茶、試してみようかなと思って。なんだか頭が冴えそうで」
「特茶の味より、おまえは仕事の中身を気にしたほうがいい」
「えっ、そんなに……独特なお味なんですか?」
「そういう意味じゃない。……まあ、好みは分かれる」
ふっと笑いながらも、唐津の視線は再び漆原を追っていた。
細いのに特茶。無口で目立たないのに、妙に存在感がある。
静かで、なぜか目が離せなかった。
会議室で交差したのは、それから数日後だった。
漆原は、唐津に挨拶をしなかった。
声もかけず、目も合わせず。唐津の方をちらとも見ずに、黙って資料を配り、自分の席に座った。
──わかってるくせに。
唐津は思った。漆原がこの本店に異動してくることは、内示の段階で知っていた。むしろ、何かしらのやり取りがあると思っていた。
けれど、会った瞬間の反応があまりにも静かすぎて、逆に気になった。
会議の最中、漆原は淡々と発言した。無駄のない声で、数字を述べ、対応方針を提示する。上から目線でもなく、媚びる様子もない。
その空気に、営業第一部の若手たちはやや緊張していた。
……昔と、変わらない。
いや、違う。
あの頃より、もっと「何も語らない」ことに磨きがかかっていた。
だが、ふとした瞬間。
唐津が横を向くと、漆原と目が合った。
ほんの一秒。
それだけなのに、その視線が深く突き刺さった。
──見てた。
見られたんじゃない。あれは、「見てきた」目だ。
唐津は、心臓がひとつ跳ねるのを感じた。
会議が終わると、漆原は誰よりも早く席を立ち、無言で出て行った。静かな足音がフロアに吸い込まれていく。
唐津はしばらく、その背中を見送っていた。
(……何を気にしてるんだ、俺は)
どこか、苦笑がこぼれそうになって、喉の奥で止めた。
ただ、確かに思った。
──あいつ、変わった。
だが、
──あの目だけは、昔と同じだった。
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