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第2話 視線の先にいたのは

漆原崇彦は、人の視線に敏感な方ではない。だが今日一日、何度か背中に感じた。明確な注視ではなく、ふとした気配の揺れ。こちらを見ている誰かがいる。それが誰なのかは、最初からわかっていた。 朝の出勤時、エレベーターのドアが開いた瞬間、空気の密度が変わった気がした。 自分の新しい所属先——本店営業部のある29階。L字型に伸びる広いフロアの一方に自分の部署が、もう一方には営業戦略部がある。 気分は落ち着いていた。 本店営業部第一部長という肩書にも戸惑いはない。数字を積み重ね、結果を出し、役職に値するだけのことをやってきたという自負がある。 「おはようございます」 課長たちが一斉に挨拶してくる。漆原は短く頷いた。目を合わせずとも伝わるように、声は返さない。 部下は4課で20人ほど。年齢も経歴もさまざまだが、一目でわかる。ここは本店、精鋭が集まる場所だ。だが、彼らにとっても、自分はまだ未知の存在だろう。 フロアを横切る途中、唐津涼介の姿が見えた。営業戦略部の部長。10年前、浜松支店で自分にとって先輩だった男。 華やかなストライプのスーツに白シャツを合わせ、清潔感と色気のバランスが完璧だ。証券マンらしく額を出したツーブロックのヘアスタイルに、ややタレ目がちの眼差し。ゆるやかに笑む口元は人好きのする表情で、見ているだけで安心感がある。そのくせ隙はなく、笑顔の奥には自信が潜んでいる。控えめに袖口から覗く腕時計や、ゆったりとした所作一つ取っても、場慣れした大人の男の余裕が滲む。 (……変わってない) 唐津は昔から、どこにいても人に囲まれていた。上司からの覚えも良く、後輩には慕われ、飲み会でも会議でも、常に輪の中心にいた。男らしい手つきでグラスを傾ける様子や、シャツの襟元から覗く喉ぼとけ、何気ない仕草すら様になっていた。 女にもモテた。とにかくよく笑い、話がうまくて、清潔感があって、決して本気にならない。遊んでいるのに、執着しない。そのスタンスが時に薄情に見えた。だが、だからこそ傷つかないし、傷つけない。そういう男だった。 浜松支店のときも、唐津は「頼れる先輩」だった。軽口を叩きながらもフォローは的確で、誰よりも後輩を見ていた。漆原がまだ数字も出せない頃、「焦んなくていいよ」と肩を叩かれた手の重みだけ、今も覚えている。 だからこそ、うまく付き合えなかった。距離の詰め方が、わからなかった。唐津が悪いわけではない。眩しすぎたのだ。 (初日に、挨拶くらいすべきだったか) そう思わなかったわけじゃない。でも、顔を見た瞬間、声が出なかった。唐津の柔らかな表情も、くぐもった低い声も、記憶のまま過ぎて。 昼休み、第一部のエリアから資料を取りに出たとき、廊下ですれ違った。すれ違いざま、唐津がわずかに足を緩めたのがわかった。こちらを見ていた。でも、声はなかった。漆原も、何も言わなかった。 唐津の眼差しに、感情はなかった。確認されただけ。懐かしさも、驚きも、そこには見えなかった。 (……そういうものだ) 10年という時間があった。互いに、もう別の場所にいる。そう割り切っているつもりだった。 午後の打ち合わせ。営業戦略部との共同案件で、唐津も同席する会議だった。 会議室のドアを開けたとき、漆原の足が一瞬止まりかけたのは、唐津が既に着席していたからだ。 「お疲れさまです」 唐津の声。低く穏やかで、昔と変わらない。男らしさと柔らかさのあいだにある絶妙なトーン。その声を何度、羨ましいと思っただろう。 漆原は無言で軽く頷く。言葉は必要ない。業務上の関係に私情は持ち込まない。そう決めていた。 資料を開く。手元を追うふりをしながら、意識のいく先は前の席の男だ。 目が合ったのは、偶然だった。漆原がふと顔を上げた瞬間、唐津の視線がまっすぐ自分に向けられていた。 ほんの一瞬。けれど、その一瞬のあと、視線を逸らしたのは自分の方だった。 見透かされる気がした。唐津の眼は昔と同じで、笑っていても観察をやめない。自分の奥まで覗き込まれるような気がした。 (変わってないな、あの目) 会議が終わり、誰よりも先に立ち上がって会議室を出た。無言で。唐津の足音が追いかけてくることも、名前を呼ばれることもなかった。 当たり前だ。あれはただの元先輩。10年前、わずかに重なった時間の断片。今は、部長同士。 なのに—— (気づいてるくせに、知らないふりをするなんて) そう思ってしまった自分を、漆原は静かに否定した。 すれ違うたび、ただの風景のように処理される。そのことに、なぜか小さな棘が刺さる。 それでも、振り返る理由にはならなかった。

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