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第3話 唐津涼介は気づいていた

五月初旬。営業第一部と営業戦略部が共同で担当する大型案件の会議が、本社ビル29階の第1会議室で行われていた。 漆原が異動してきてから、まだ日が浅い。だがすでに、彼の仕事ぶりは本店フロアで静かな話題になっていた。 口数が少なく、立ち居振る舞いも落ち着いている。柔らかくも堅さを感じさせるスーツの着こなしに、伏し目がちの視線。よほど注意を払わなければ、彼が“全国トップセールス”だったなどと気づかないかもしれない。 ──だが、それは見かけの話だ。 唐津は知っていた。数字だけ見れば、漆原は派手だった。全国一位を連続で獲得した記録。地方支店であれほどの実績を積み上げ、そして本店に呼ばれるというのは、ただのエリートではない。 それでも漆原は、それを鼻にかけることもなければ、へりくだることもない。ただ、ごく当たり前のように、そこにいる。努力を誇示せず、結果を過不足なく示す。それが当たり前のような顔で。 会議室に入ってきた瞬間、空気がふっと引き締まる。彼が意図しているわけではない。だが、あの独特の静けさが、場の気を整えてしまう。誰もが少し姿勢を正すように、無意識に緊張する。 「……では、今期の数値予測に関しては、こちらをご覧ください」 淡々とした口調。切れ長の目はやや伏し目がちで、まっすぐ人を見ることは少ないのに、それでも妙に目を引く。眼差しに感情はほとんど宿らない。だが、その冷静さがむしろ説得力になっていた。 ──漆原のあの目、昔から変わらない。 ふと、こちらに目を向けた瞬間、唐津の鼓動が一瞬強く跳ねた。 ──見られた、んじゃない。 ──見てきた、んだ。 10年前、浜松支店で同じ空気を吸っていた日々。あの頃も、漆原は目を合わせて話すことは少なかった。だが、ときどきふと向けられる視線には、妙に重みがあった。無表情のまま、確かな意志だけをにじませてくる、あの目。 真っ直ぐで、痛いほど静かで、何かを測っているような目。 ──あいつ、変わってないな。 いや、変わっていないどころか、磨き上げられていた。 あの頃の漆原は、とっつきにくかった。部下という立場ではあったが、唐津にとっては扱いにくい存在だった。必要なことしか話さず、愛想もない。けれど、その分だけ、信頼もできた。 「彼女いるのか?」と聞いたことがある。 漆原は無表情で、「いません」と答えた。短くて、何の余白もない言葉だった。 ──そういうところも、やっぱり俺とは真逆だったな。 唐津自身は、毎週のように飲みに出かけていた。女にも、営業にも、全力で手を抜かなかった。というより、抜けなかった。遊びも、武器のひとつだと思っていた。 それでも、なぜか漆原のことは気になっていた。 沈黙のまま仕事をこなすあいつに、時々声をかけた。「たまには飲みに行くか」とか、「最近、どうだ」とか。手ごたえのない返事が多かったが、それでも構いたくなる存在だった。 無口で、鋭くて、遠いのに──なぜか放っておけなかった。 そして今。 会議での立ち居振る舞いは洗練されていて、スーツの着こなしは自然。資料を開く手に無駄がなく、話す内容も端的で、要点を逃さない。どこにも力みがない。 堂々としている。 議論が白熱しても、漆原の声が乱れることはなかった。むしろその淡々とした語り口が、数字と理論の重みをより際立たせる。 そして、机の上にはまたしても特茶。 ──また、それか。 何度目だろう。初めて見たときは偶然かと思ったが、どうやら定番らしい。無造作に置かれているのに、妙に目を引く。飲み物ひとつにしても、漆原らしい。 (昔から、そういうとこ、変わんねぇな) 気に入ったものは、誰に言われるでもなく、黙って繰り返す。流行には乗らず、けれど自分なりのスタイルは崩さない。 唐津はふと、自分の中に生まれた感情に気づいた。 ──羨ましい、と思った。 自分だって、ずっと営業部にいたかった。 証券会社において、現場で数字を動かす営業部は“華”だと信じている。戦略部は重要な役割を担っている。理論を整え、制度を設計し、営業が戦える土台を作るのが自分の役目だ。 だが、それでも現場と距離があるのは否めない。数字を、汗で勝ち取るあの熱の中に身を置くことは、もうできない。 本音を言えば、営業戦略部長ではなく、営業部の部長として第一線に立ちたかった。そんな未練を、今の漆原を見るたびに思い知らされる。 (……なんで営業部じゃないんだろうな、俺) そんなことを考えている自分に気づき、唐津は自嘲気味に笑った。 だが、漆原の実績を知っているからこそ、こうも思う。 ──それだけのものを、あいつは持ってる。 全国トップの称号も、抜擢人事も、納得せざるを得ない。地味で、言葉少なで、人付き合いは得意じゃない。けれど、数字を動かす力がある。ぶれずに、誤魔化さずに、淡々と積み上げてきた男だ。 会議が終わり、漆原は唐津に一礼すると、静かに部屋を出ていった。 背中を見送りながら、唐津は思った。 ──おまえの戦い、しっかり見てるからな。 生意気だった後輩の姿が、今は少しだけ遠い。 だからこそ、その視線に、言葉にならない感情が宿る。 唐津は、胸の中にかすかに残ったざわつきを、静かに受け止めていた。

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