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第4話 境界線の温度
漆原が本店に異動してきてから、ひと月半が過ぎようとしていた。
第一部の部下たちは優秀で、動きも早い。共有事項や定例の流れを把握し、漆原に無駄な説明をさせることもない。
本店らしい、と言えばそれまでだが、この緊張感と高密度な業務量は、京都支店とはまったく質が違っていた。
部長席から見渡す景色は、静かに整いすぎている。
足音、声のトーン、紙をめくる音までが洗練されていて、誰もが効率を意識し、一定の距離感を保っている。
そんな中で、ふと目を引く存在がある。
営業戦略部──営業部門と協働しながら、資料作成や提案戦略の立案を担う部署だ。
その部長席に座るのが、唐津涼介という男である。
唐津の声は、ここに来てから一度も正面から耳にしていなかった。
すれ違うたびに互いに会釈を交わす程度で、言葉を交わす機会はない。
あの日の会議も、業務の挨拶だけで終わった。
(変わらないな、あの人も)
そう思っていた。
言葉がなくても、唐津はよく見ている。会議での些細な言葉尻や、提出資料の癖の違いまで拾ってくるタイプだった。
ただ、それは10年前の印象だ。今の唐津がどう思っているのかは、わからない。
それを確かめる理由も、立場も、もうなかった。
──そう、思っていた。
そんなある日のことだった。
夜八時を回ったフロアは、すでに人の気配がまばらだった。
資料を確認し終え、帰ろうと立ち上がったそのとき、背後で足音が止まった。
「漆原」
唐津の声だった。
反射的に振り向く。
記憶よりわずかに低い声で、それでも、はっきりと自分を呼んだ。
その瞬間、耳の奥がかすかに熱を帯びた。
──この声を、覚えていた。
思考が一瞬だけ止まった。
唐津が名前を呼ぶ。
当たり前のようでいて、ここに来てから初めてのことだった。
「はい……」
声がわずかに遅れた。漆原自身、気づかぬうちに呼吸が乱れていた。
「今、帰るとこか?」
その言い方も、昔と変わらない。
仕事上の確認であっても、唐津は他人に強く踏み込まない。ただ、少しだけ間をあけて言葉を挟んでくる。
「はい。少し残っていたので……」
言葉が自然に出てこない。無理に抑えたわけでも、緊張していたわけでもない。
ただ、心のどこかが唐津の声にふれた気がして、戸惑っていた。
唐津は手に数枚の資料を提げていた。報告書だろうか。表紙に挟まれたクリップが反射して、蛍光灯の光を返している。
目線を下げたまま、ふっと息をついて言う。
「こっちも終わったとこなんだ。……ちょっと歩くか?」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「駅の地下街まで。軽く飯、どうかと思って」
不意だった。
そういう誘いを受けるとは思っていなかった。仕事の話でもない、必要な接点でもない。
ただ、唐津が今、自分を誘っている。そう気づいた瞬間、胸の奥にかすかな熱が灯る。
「……はい。構いません」
返事をしながら、漆原は自分の声が少しだけ震えているのを感じた。
気づかれない程度のわずかな動揺。けれど、それが妙にくすぐったかった。
エレベーターに乗る。二人きりの空間。
唐津は何も話さない。黙ったまま前を向いている。
その沈黙が、今夜は不思議と心地よかった。
唐津の隣に並ぶのは、10年ぶりだった。
(……こんなふうに、声をかけてくるなんて)
不意に、昔の記憶が蘇る。
浜松の支店で、残業後に帰ろうとしたとき、玄関先で立ち止まって「漆原、お前、腹減ってんだろ」と笑いながら声をかけてきた唐津。
断れなかったし、断る気にもならなかった。
その夜、カウンターで一緒に食べた牛丼の味まで、なぜか急に思い出した。
東京駅の地下通路は、いつもより人が少なかった。
唐津は特に行き先を決めていない様子で、ただ横を歩いていた。
(……変わってない)
そう思った。けれど、すぐに訂正する。
変わらない。でも、それだけじゃない。
唐津は今、あの頃よりもずっと“大人の男”だった。
言葉の選び方、間の取り方、姿勢、歩くリズム──全てに余裕がある。
力を抜いているのに、だらしなさは一切ない。
並んで歩くだけで、妙に胸がざわつく。
この距離、この歩幅、この沈黙。
何もしていないのに、なぜか落ち着かない。なぜか、熱をもつ。
やがて唐津は、ある店の前で立ち止まった。
「ここでいいか?」
白木の格子戸に暖簾がかかり、控えめな照明が落ち着いた雰囲気を作っている。
メニューは和中心だが、焼き物や小鉢の種類も多く、日本酒もそろっている。東京駅の地下にしては静かで、丁寧な接客のある、知っている人しか来なさそうな居酒屋だった。
(……こういう店、覚えてるんだな)
そんなことを思いながら、漆原はうなずいた。
席はカウンターの端。
二人並んで腰を下ろすと、唐津は慣れた様子でおしぼりを取って、手を拭いた。
注文を終えると、唐津はビールを頼んだ。
漆原は炭酸水を頼み、グラスを両手で包んだ。
運ばれてきたビールを、唐津は当たり前のように左手で受け取った。
グラスを少し傾け、泡の切れ目を確認するように覗き込む。
その仕草が、なんというか──様になっていた。
白木のカウンターに肘をかけながら、ビールのグラスを持つ手首の角度が自然で、力が入っていないのに絵になる。
無造作に袖をまくった手首、男らしい指、グラスを持ち上げる動きの一つひとつが、妙に整っていて、かっこよかった。
思わず視線がそこに吸い寄せられる。
(……なにを見てるんだ、自分は)
ふと目を逸らして、自分のグラスに視線を落とす。
でも、その後も何度か、自然と唐津の手に目がいった。
「……お前、変わったな」
ぽつりと漏れた言葉に、漆原の足が止まりかけた。
「そう……ですか」
「前よりずっと、いい顔してる」
唐津は立ち止まり、ゆっくりと顔を向けた。
「ちゃんと見てた。お前、ずっと真っ直ぐだったけど──今は、余計なものが取れてて、すごくいい」
言いながら、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らす。
その言葉に、漆原は確かに“見られていた”ことを知った。
沈黙が、ひととき流れた。
そして、ほんの少しだけ隣との距離が近づいたような気がした。
──これは、何かが始まっているのだろうか。
それとも、始まりもしないまま、また交わらずに終わっていくのか。
わからない。ただ、胸の奥のざわめきだけが、静かに灯り続けていた。
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