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第5話 夜の余白に灯るもの
久しぶりに本格的な雨が降った夜だった。
東京駅の丸の内口は、濡れた舗道に光が反射し、歩く人々の影を細長く引き伸ばしていた。
本店のビルも、残業を終えた社員たちがまばらに出入りし、静かな余韻をまとっている。
漆原は、その夜、唐津と共に帰路についた。
前触れもなく誘われた食事は、駅直結の商業施設の中にあるバルだった。
控えめな照明と、落ち着いた内装。背の高い椅子と木製のカウンターが、ほどよく親密な距離を生む。
メニューを開いた唐津は、ビールの欄に目を留めて「じゃあ俺、これにするか」と、小さく笑った。
「トリスティーノ・ブロンド」──聞いたことのない名前だった。
「変わったの頼むんですね」
漆原がそう言うと、唐津は肩をすくめた。
「こういうの、最初に意味もなく頼んで後悔するんだよな。まあ、見た目が可愛いから良しってことで」
その言い草が妙にらしくて、漆原もつられて「同じのにします」と答えていた。
味は、やや甘くて軽い。ビールというより、香りのいい飲みものだった。
言葉は少なかったが、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、久しぶりに“横にいる唐津”が、懐かしくも新鮮だった。
「悪かったな、急に誘って」
箸代わりのピンチョス用の串を持ったまま、唐津がぽつりと言った。
「いえ。驚きましたけど、うれしかったです」
率直に答えながらも、漆原の声は少しだけかすれていた。
感情を抑えようとすればするほど、言葉は簡素になる。
唐津はそれ以上何も言わず、小さなグラスに口をつけた。
その仕草の自然さに、漆原はふと、10年前の唐津の姿を思い出していた。
先輩と後輩という関係の中で、必要以上の会話はなかった。
だが、漆原がトラブルを処理して戻ってきたとき、黙って缶コーヒーを差し出してきた唐津の横顔は、今も記憶に残っている。
あの人は、相変わらず余白のある人だ。
踏み込みすぎず、離れすぎず。けれど、ここぞというときには、温度を持って寄ってくる。
「第一部、まとまってきてるな」
不意に唐津が言った。
漆原は少し驚いた。
「……見てるんですね」
「見てるよ。そりゃ、同じフロアにいるしな。第一部の動きが鈍いと、こっちの資料作りにも影響出るし。……あと、うちの連中、ちょくちょくおまえの会議に混ざってるしな」
営業戦略部は、営業部門と並走する立場にある。
ときにはアポイントに同行し、会議でも顧客情報の取り扱いを詰め合う。唐津の仕事は、単なる戦略立案ではなく、実務に近い部分まで深く関わっている。
「最近なんかいい緊張感ある。漆原が来て、程よく締まったんだろうな」
淡く笑って、串を皿に戻す。
「ま、他の部長は焦ってるかもな。第一部が数字まで出してきたら、けっこう厄介って空気あるし」
言いながら、唐津は冗談めかした口ぶりで、グラスを傾けた。
だが、目元は笑っていなかった。
(さほど本気ではない。けれど、まったくの冗談でもない)
漆原は、胸の奥にざらりとしたものを感じていた。
「からかわれてますか」
「そんなつもりじゃない。……素直に、感心してるだけだよ。お前、ちゃんと部を動かしてる。指示もそうだし、構造の作り方が上手い。眞壁とうまくやってるのがまた面白い」
「……眞壁は、いいやつです」
ふいに漆原がそう言った。
話の流れとは少しずれていたが、唐津はすぐに笑った。
「うん。……だよな。あいつは、根がまっすぐで裏表ない。おまえと並んでるのが、なんか安心するんだよ」
「ありがとうございます」
それ以上は言わず、グラスに口をつけた。
その夜は、何も決まらないまま、静かに、確かに、関係だけが進んでいた。
唐津は、ふと視線を外して壁のメニューに目をやる。
その横顔に、若い頃の“男前な先輩”の印象が一瞬重なった。
けれど今は、その輪郭に落ち着きと静かな余裕が加わっている。
話す言葉は以前と変わらず無駄がなく、場をまとめる手際も相変わらずだが、急がず構えず、相手の呼吸を見て動く――そんな“大人の男”の気配があった。
(……この人は、たぶん深くなった)
グラスに残る淡い泡を見つめていると、胸の奥に潜んでいたざわつきが、ふいに輪郭を持ちはじめた。
静めたいのに、むしろ熱を帯びていく。
「……おまえ、前より、いい顔するようになったな」
唐津が、以前とは違う声の色で言った。
「落ち着いてるのに、前よりずっと目がよく動く。……なんか、ちゃんと見てるなって感じがする」
その言葉と、グラスを持ち替える何気ない仕草が、なぜこんなにも様になるのだろう。
着ているシャツの質感、自然に整った髪の流れ、会話の間の取り方――どれも派手さはないのに、目を離せなくなる。
──こういう人間になりたい、と昔は思った。
けれど今は違う。
ただ、この人の隣に座っていたい。そう願う自分がいる。
「……俺、おまえのこと、全然わかってなかったかもな。十年前」
ぽつりと唐津が言った。
「むしろ俺の方が、怖がってました」
「え?」
「違う世界の人みたいに思ってました。……ずっと、まぶしかったです」
グラスを持つ手に、唐津がふっと力を抜いた。
「……変なもんだな」
そう言って、唐津は口元をゆるめた。
「じゃあ、これから、ちゃんと知っていけばいいか」
それが、唐津らしい提案だった。
大きな約束も、無理な間の詰め方もない。ただ、静かに差し出された歩み寄り。
漆原は、ほんの少し頷く。
それだけで、唐津の目元がやわらいだのがわかった。
ピンチョスと、冷めかけたビールのあいだに、あたたかな余白が生まれていく。
その夜、漆原の中で確かに何かが動き始めた。
名前はまだつけられない。
けれど、目をそらさず、もう一歩近づいてみようと思った。
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