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第6話 すれ違いのその先に
翌朝、唐津は少しだけ早く出社した。
雨はすっかり上がって、東京駅前には澄んだ空気が漂っている。
丸の内口の広場には、昨日の雨を吸った石畳がまだほんのりと湿っていた。
本店29階のフロアに足を踏み入れると、まだ席についている社員は少ない。
営業戦略部のエリアを抜け、唐津は給湯室の脇で立ち止まった。
そこにはすでに、漆原がいた。
カップにコーヒーを注ぎながら、プロテインバーをかじっている。
その手元には、いつもの特茶が添えられていた。
(……健康を気にしてるのかしてないのか、よくわからないな)
思わず笑いそうになりながら、唐津は声をかけた。
「……おはよう」
漆原は少しだけ驚いたように振り返った。
「おはようございます。……早いですね」
「お前もな」
それだけ言って、唐津は隣に立った。
互いに言葉は少ないが、昨日の夜が、何かを少しやわらげた気がした。
沈黙が気まずくない。むしろ、心地よい余白を持って流れていく。
「昨日は、付き合わせて悪かったな」
「いえ。誘っていただいて、ありがとうございました」
漆原は短く返し、また静かにプロテインバーをかじる。
その仕草が妙に愛おしいような、可笑しいような感覚を覚えて、唐津は目をそらした。
「……会議、午後だったな」
「はい。第一と戦略部の、共同案件の進捗確認です」
「また向かいの席か」
「ですね」
どちらからともなく、微かな笑いがこぼれる。
***
午後の会議室。
営業第一部と営業戦略部のメンバーがそれぞれ着席していた。
営業部が担うのは、実際に顧客と対峙し、案件を動かす“前線”。
戦略部は、それを支える“頭脳”。数値、制度、マーケット分析──全体の流れを設計し、実働部隊が動きやすいように構造を作るのが役割だった。
「──以上が、第一部の進捗状況です」
漆原が報告を締めると、唐津が頷いた。
「よくわかりました。簡潔にまとまっていて、助かります」
その言葉に、第一部の若手たちがわずかに顔を上げた。
部長が部長を褒める。稀な光景だ。
「一点、よろしいでしょうか」
漆原が資料の一箇所に視線を落としたまま、口を開いた。
「こちらの投資回収見込みですが、下期想定がやや楽観的に見えます。実勢のレンジと、想定利回りに開きがあるのでは。条件面を修正するか、補足が必要かと」
会議室が一瞬、静かになった。
指摘のトーンは穏やかだった。だが内容は鋭く、論点が明確だった。
そして何より、実務に即していた。
唐津は、心の中でひとつ頷いた。
(……そういうとこ、変わらないな)
ただ指摘するのではなく、「使う側の目線」で資料を見ている。
漆原の目は、分析ではなく運用に向いている。数字を活かすために整える──それが、前線に立つ人間の目だ。
「的確なご指摘ありがとうございます。補足、追記して共有します」
戦略部の担当者がそう答えると、漆原は軽く頷いた。
眞壁がその横でメモを取りながら、小さくうなずいているのが見えた。
早い反応、的確な補助──漆原の右腕として動いているのが、よくわかる。
そして、第一部の部下たちは皆、漆原の指示を当然のように受け止めていた。
すでに統率が取れている。声を荒げるでもなく、仲良くなあなあにするでもなく、規律と信頼で自然にまとまっている空気。
唐津は、無意識にその様子を観察していた。
(……いい部になってる)
部屋の一角で、戦略部の本堂が頬杖をつきながら漆原を見ていた。
その横顔が、どこか憧れに近い何かを含んでいるように見えたのは──気のせいだろうか。
***
夜、唐津が営業戦略室のフロアを歩いていると、本堂が声をかけてきた。
「部長、少しよろしいでしょうか」
「ん?」
「第一部から共有された資料の件なんですが、確認していて、印象に残る部分があって……」
「ああ。漆原のとこ?」
「はい。眞壁課長と、漆原部長のお名前が連名で入ってました」
唐津は立ち止まり、資料を受け取る。本堂の目はまっすぐだった。
「簡潔だけど、すごく丁寧なつくりですね。言葉の選び方も、相手への配慮があって……」
「眞壁の文章はあいつっぽいな。でも、流れの整理は漆原だろ」
「そうなんですね。なんか、信頼できる感じがするっていうか」
本堂がぽつりと漏らすように言う。
「そうだな。あいつは……真面目だよ。まっすぐで、無駄がない」
自分の口から出た言葉に、自分自身で少し驚く。
そうやって、誰かのことを人に話すのは、どこか久しぶりだった。
本堂はしばらく資料を見つめ、それから言った。
「漆原部長みたいな人、営業部にいるの、ちょっと羨ましいです」
唐津は眉を上げた。
「ふうん。お前、営業部に行きたいのか?」
からかうような口調だった。だが、その一瞬の間に、何かを確かめるような含みがあった。
本堂は一拍置いて、苦笑する。
「違いますよ!唐津部長がいるから、戦略部がいちばんです」
その返しに、唐津はふっと笑った。
「わかってるよ」
それだけ言って、軽く背中を叩いた。
エレベーター前で、本堂と別れたあと、唐津はひとり、窓の外を見つめた。
東京の街に灯る光が、夜の湿気をまとって静かに揺れている。
──距離は、縮まったのか。
少しだけ開いた風のような隙間に、また少しだけ、触れてみたくなっている。
そんな自分に、気づかぬふりをして。
今日も、一日が終わっていく。
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