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第7話 隠しきれない熱
夜のオフィスは静かだった。
残業を終えた社員たちの気配が消え、ビルの29階にはわずかな灯りとキーボードの音だけが残っている。
漆原は自席で、唐津に提出した資料の控えを読み返していた。
訂正する箇所も添削も不要なはずだった。だが手元から離すのが惜しかった。
──よくまとめてる。
唐津が会議でそう言ったとき、表情にはほとんど変化がなかった。
だが、ほんの一瞬。視線が合った、その奥に確かに温度があった。
(……また、言われたい)
ふいにそう思って、漆原は小さく息をついた。
昔から、唐津はふとした瞬間に褒めてくれる人だった。無口で、表立って誰かを持ち上げるようなタイプではなかったが、それでも新人だった漆原を、時折まっすぐに評価してくれた。
──よく見てる。──ちゃんとやってるな。
その一言が嬉しかった。褒められると、また次も頑張ろうと思えた。
今はもう、そんなモチベーションで仕事をしている年齢ではない。評価や承認に振り回されない場所に、自分は来ているつもりだった。
それなのに。
唐津に褒められると、あの頃の感覚が、まるで身体の奥から蘇ってくる。
新人時代に戻ったみたいに、嬉しくなってしまう。
──あの人の言葉は、簡単に胸に残ってしまう。
不意打ちのように褒められたその瞬間が、何度も思い出される。
会議室の光景、視線の熱。距離感。
それを意識してしまう自分が、少しこわかった。
「──部長、顔が緩んでます」
背後からかかった声に、漆原は反射的に資料を伏せた。
振り返ると、そこには腕を組んだ眞壁が立っていた。
「……緩んでない」
「いや、緩んでました。だいぶ」
漆原はわざと無表情を作って書類を整える。
「もう退勤したと思ってた」
「俺は律儀なんで、部の進捗見届けるまで帰りません」
「それで、人の顔を観察してたと」
「いやいや、違いますよ。ただ、珍しく“わかりやすい顔”してたから、つい」
眞壁は椅子の縁に寄りかかりながら、書類の山をちらりと見た。
「……唐津部長、褒めてましたね。あれ、嬉しかったんですか」
「……そう聞くか、普通」
「いや、唐津部長のこと、漆原部長がちゃんと尊敬してるってのは前から感じてたので」
その言葉に、漆原は一瞬言葉を失った。
眞壁の表情は軽かったが、どこか真面目な熱も混じっている。
「……そう見えるか」
「見えますよ。漆原部長って、人に興味ないように見えて、相手の仕事ぶりにはすごく敏感だし。唐津部長のときは特に」
「……」
「俺はあの人、格好いいと思いますよ。落ち着きと説得力、言葉が少なくてもちゃんと伝わる感じ。無理してないのに、空気を持ってく人って、なかなかいないです」
漆原は視線を落としたまま、わずかに頷いた。
──そうだ。だから、俺は……
飾らず、押しつけず、それでも何かを引き寄せてしまう強さ。
その無意識の在り方が、羨ましくて、眩しくて、目が離せない。
眞壁が唐津を「格好いい」と評するとき、それは主に職業人としての敬意であり、距離のある賛辞だ。
だが漆原にとっては違う。
──強さに惹かれるだけなら、尊敬で終われたはずだ。
けれどあの人は、時折まっすぐにこちらを見て、言葉をくれる。
それは見逃されずにいる実感であり、ひそかな承認であり──自分の弱さまで受け止められてしまいそうな優しさだった。
だから困るのだ。
──俺は、あの人のことをもっと知ってる。
静かな顔、決断のときの目、夜の空気をまとった声。誰にでも見せる姿じゃない部分を、いくつも、知ってしまっている。
眞壁が知らない“唐津”を、自分は知っている。
その自負と、戸惑いと、焦がれるような感情が、混ざり合っていた。
「眞壁」
「はい?」
「たまには黙っててくれ」
「善処します」
にやりと笑うその顔に、漆原は苦笑を返すしかなかった。
──バレていない。けれど、思っている以上に見られている。
それが、少しだけくすぐったく、そして気恥ずかしかった。
数字に集中しよう、と一度は思った。デスクに積まれた次月の試算表、未処理の契約ファイル、部下の報告書。
それを一枚ずつ手に取りながら、漆原は自分に言い聞かせるように指先を動かす。
だが、頭の中には別の光景が何度も浮かんでいた。
──あの人の声。視線。言葉の温度。
数字に集中したいのに、集中しきれない。
少し困っている自分に気づいて、漆原は小さく舌打ちした。
どうやら今夜は、いつもより仕事が進まなそうだった。
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