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第8話 静かな嵐

翌朝のオフィスは、まだ完全に動き出す前の静けさに包まれていた。 漆原はいつもより少しだけ早く出社し、自席に鞄を置くとすぐに資料の確認に入った。前日に唐津から褒められた報告資料。そのデータの裏取りや数値の根拠について、改めてチェックを重ねる。 ──不備があるわけじゃない。 それはわかっていた。 けれど、またあの人に「よくやった」と言われるためなら、どれだけでも丁寧に見直せると思ってしまう自分がいた。 デスクの脇には、朝開けたばかりの特茶。すでに半分以上が空になっている。 プロテインバーをひとかじりし、PC画面に映るグラフの推移を追いながらも、思考は別のところにあった。 ──あの時、たしかに視線が合った。 言葉は少なかった。だがそれだけに、あのひとことの重みが大きかった。 唐津の口から出る評価は、飾らず、嘘がなく、だからこそ胸に残る。 (……仕事のことだけ考えろ) 苦笑するように自分に言い聞かせながらも、指先の動きはどこか落ち着かない。 第一部のメンバーが次々と出勤してくる。 そのたびに軽く会釈を交わし、必要なやりとりを交わす。 だが、漆原の意識はずっと、29階の反対側――営業戦略部の方角に引っ張られていた。 (今日は、もう来てるだろうか) 特に理由はない。確認する用件があるわけでもない。 それでもふと顔を上げて、そちらのフロアを見渡してしまう自分がいる。 唐津の姿はまだ見えなかった。 けれどその数分後、ふいに会話の気配が聞こえた気がして、無意識に顔を向ける。 唐津が、給湯室のほうから歩いてきていた。 濃紺に細かなストライプが走るスーツに、隙なく整えられた髪。ツーブロックのラインすら計算されたようなその姿は、どこか舞台に上がる役者のようで、見る者を自然と惹きつける。 ブラックコーヒーを片手に、資料の束を持ったまま足早に通り過ぎていく。 その横顔に、漆原は自然と目を奪われていた。 ──朝は機嫌がいいんだろうか。 特に話すわけでも、視線が交わるわけでもない。 ただ唐津がそこにいる。それだけで、胸の奥がざわめく。 (……こんなの、俺じゃない) いつの間にか、視界の中に唐津を探す癖がついている。 声を聞くだけで少し緊張して、話しかけられると嬉しい。 ──部下をまとめるのが上手い人だ。 ふと思い出す。 営業戦略部は、営業部と違って多様な人材が揃っている。頭脳派もいれば、行動力で勝負するタイプもいる。正解のない企画や提案を扱う分、まとめづらさもあるはずだ。 それでも、唐津のもとでは不思議と空気が整っている。 適度な距離感と信頼を持って、自然と部下たちが動く。 資料を読むときの唐津の声も思い出す。 低くて柔らかくて、語尾に丸みがあって優しい。 男らしい外見とのギャップがあるその声は、だからこそモテるのだと思う。 ──名前を呼ばれたときも、あの声だった。 「漆原」 たったそれだけの言葉に、なぜか全身が反応した。 呼ばれただけで、視線を向けたくなる。 期待してしまう。 ──そんなふうに思ってしまうのは、職業倫理として危ない。 唐津に対しては、尊敬と憧れと、何かもっと強くて、熱を帯びた感情。 そのすべてが入り混じって、自分の中で膨らみ続けている。 「……っ」 唐津の背が見えなくなったタイミングで、漆原は小さく息をついた。 ──眞壁の言葉が引っかかっていた。 “尊敬してるって、感じてました” あれは核心だったのかもしれない。 いや、眞壁が見ているのは氷山の一角にすぎない。 「尊敬」は確かにある。 けれどそれだけでは、夜中まで資料を読み返したり、こんなにも言葉を反芻したりしない。 (……認められたい、だけじゃない) もっと近くにいたい。もっと知りたい。 そう思ってしまう自分に、そろそろ抗えなくなっている。 PCに表示されたグラフが滲む。 再度目を凝らし、データの修正点を確認するふりをして、気持ちを立て直した。 ──弱さを見せたくない。 それでも、唐津にだけは見透かされてしまいそうで。 だからこそ、距離をとるべきなのかもしれない。 けれど、すでに心は唐津に向かっていた。 自覚したその夜から、もう引き返す術はなくなっていたのだ。 漆原はゆっくりと席を立った。 今日の共同案件の確認ミーティングに向けて、営業戦略部のフロアに足を運ぶ。 唐津と向き合うために。 ──ただの仕事。そう思いながら。 それでも、唐津の一挙手一投足が視界から離れないまま。 高鳴る胸の音を押さえるように、漆原は静かに歩みを進めた。

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