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第9話 夜の匂い

その夜、漆原が地方の顧客先から戻る途中、東京駅に着いたときにはすでに小雨が降っていた。 外に出ると、駅前の石畳が濡れて鈍く光っていた。風もあって、傘を持っていない身には少し厄介な天気だった。 それでも、走るようにしてビルに戻る。傘を忘れたことを悔やみつつ、ようやく29階にたどり着いた頃には、漆原のスーツの肩には薄く雨の跡が残っていた。 「……ついてないな」 小さく呟いたそのときだった。 「漆原」 低く通る声に振り返ると、帰り支度を終えた唐津がフロアの奥から歩いてくるところだった。 スーツの上からでもわかるしなやかな体格。 シャツの襟元を少し緩めた首筋に、わずかに覗く喉仏が、妙に男らしさを強調する。 ネクタイを外した姿は、整えすぎていない分だけ余裕を感じさせ、仕事帰りの空気を纏ったその佇まいは、どこか色気さえ帯びていた。 唐津は数歩こちらに近づくと、漆原の濡れた肩に目を留め、ためらいなく自分のジャケットを脱いだ。 「濡れてるな。これ、使え」 「あの……」 「いい。俺は帰るだけだから。風邪ひくなよ」 漆原が言葉を返す前に、唐津はさらりとそのジャケットを彼の肩にかけた。 体温の残る重みが一瞬で身体に伝わる。生地がひんやりしているのに、どこか温かい。 唐津の仕草はあまりにも自然で、それがかえって胸に迫る。 気遣いが、優しさが、呼吸の隙間に滑り込んでくる。 「……ありがとうございます」 小さく礼を言うと、唐津はもう視線を向けず、軽く手を挙げて出口の方へ歩き出した。 残された漆原は、その場に立ち尽くしたまま、肩にかかったジャケットの重みと温度に、しばらく動けなかった。 ──唐津の体温と匂いが、すぐそこにある。 香水ではない、柔らかいスーツの生地と、微かにコーヒーの香り。 落ち着いたそれに包まれて、思考の端が熱を帯びていく。 (……まずい) ほんの少しの接触に、過敏に反応してしまう自分がいた。 *** その夜、漆原はどうしても寝つけなかった。 仕事の疲れがあるはずなのに、身体はむしろ妙に冴えていた。 ベッドの隅に置かれたジャケット。 視界の端に入るたびに、意識がそこに引き寄せられる。 (返さなきゃ。明日の朝、返す) それだけのことなのに、手放しがたい気持ちがあった。 ──唐津が、自分のために脱いだもの。 あのジャケットには、唐津の温度と気配が残っている。 ほんのわずかに、袖口のあたりから柔らかく香るその匂いに、胸の奥がざわめく。 触れてはいけない何かに触れてしまったような、あるいは、もう一歩踏み込んでしまったような——そんな危うさがあった。 ジャケットに触れるたび、記憶が鮮明に蘇る。 雨に濡れた肩、低い声、無言の優しさ。 ただの気遣い。そうわかっている。 でも、そうじゃない想いで受け取ってしまったのは、自分の方だった。 (……こんなふうに、思いたくなんてなかった) なのに、唐津の仕草はいつも自然で、押しつけがましくない分だけ、深く刺さる。 ──本当に、まずい。 自分の気持ちが、もうごまかせないところまで来ている。 理性が効かなくなる前に、目を閉じる。 けれど、まぶたの裏には唐津の顔が浮かんでしまう。 視線の奥にあった温度。 あの人が、自分にだけくれる熱。 (……もっと、知りたい) 声の色も、目の動きも、あの手の温かさも。 誰よりも知っていたいと思ってしまう。 けれどそれは、知らなければ済んだことだ。 知ってしまえば戻れない。手を伸ばしてしまえば、踏み出してしまえば、 二度と以前の関係には戻れないことくらい、わかっている。 (……無理だ) たぶん、叶うわけがない。 自分なんかに、唐津は振り向かない。 そんなふうに思い込むことでしか、眠れなかった。 その夜は、何度目を閉じても、唐津のことばかりが頭をよぎった。 気づけば、朝が近づいていた。

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