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第10話 触れてしまった温度

唐津のジャケットを返したのは、翌朝のことだった。 29階のフロアに着いてすぐ、営業戦略室の端にある唐津のデスクへと向かう。本人はまだ来ておらず、椅子も空いている。その背に、丁寧に畳んだジャケットをそっとかけた。 それだけのはずだった。 ──なのに、昼を過ぎても、仕事中の頭の片隅から唐津が離れなかった。 「……集中しろ」 誰にも聞こえないほどの声で、自分に言い聞かせる。 けれど、言葉では押し戻せない。あの夜から、心の奥に芽を出したものが、じわじわと熱を帯びて広がっていく。 ただの気遣い。何度もそう思おうとした。けれど、唐津の仕草が頭から離れない。無言で肩にかけられたジャケット。あの時、息を呑んで言葉が出なかったのは、自分でも理由がわかっていた。 ──あの人が優しいのは、きっと誰にでもそうなんだ。 そう思おうとするたびに、記憶はむしろ鮮やかさを増してよみがえる。 本店長室前の大会議室では、定例の全体会議が進んでいた。営業戦略室の部課長と本店営業部の面々が一堂に会するこの場は、毎月一度の重要な会議だ。漆原も、営業第一部を代表して出席していた。 とはいえ、会議の内容が頭に入ってこない。唐津の姿が、視界の端にあるだけで意識が引っ張られてしまう。 会議室の長いテーブルの向こう、営業戦略室側の席で唐津が発言する。 議事をリードするその声は、昔と変わらず落ち着いていて、堂々としていた。 手元の資料に視線を落とし、話の合間にこちらを一瞥する、その目線の鋭さに心臓が跳ねる。 思考を巡らせているときに、わずかに眉間に寄る皺も懐かしい。 その仕草を、何度も見てきたはずなのに、今はどうしてこんなにも胸に刺さるのか。 何より目を引いたのは喉元だった。 シャツの第一ボタンを外しているのは珍しい。朝の忙しさか、前夜の余韻か──。 わずかに動く喉仏に、どうしようもなく意識が引っ張られる。 (……何を見てるんだ) 自分に呆れながらも、目が逸らせなかった。 唐津が指先でペンを回すと、その動きまでもがなぜか気になってしまう。節のある手、男らしい骨格、スーツの袖口からのぞく細く整った手首。 誰も気にしないようなことに、目がいってしまう自分がいた。 会議が終わる頃には、内心ぐったりしていた。 ──これでは、まるで、恋をしているみたいだ。 だが、それを認めるのはあまりにも怖かった。 理性が、首を振って否定する。 (違う。これは憧れだ。あの人は昔から、尊敬できる先輩で……) そう繰り返すほどに、言葉が空しく響く。 尊敬だけで、あんなにも体温に敏感になるはずがない。香りを覚えてしまうはずがない。 そう気づいてしまった瞬間から、気持ちはもう、抗えないほどの重さでのしかかっていた。 *** 午後、廊下を歩いていたときだった。 遠くの窓際に、唐津の姿が見えた。営業戦略室の女性社員と話している。 彼女は入社数年目の若手で、笑顔が可愛らしい。唐津は、彼女の話に時折相槌を打ち、柔らかく目を細めていた。 (……優しい顔をするんだな) 喉がぎゅっと詰まるような気がした。 そういう目で、自分を見たことがあっただろうか。いや、あった。あの夜、ジャケットをかけてくれたとき。いつかの浜松で、疲れてうずくまっていた自分を無言で拾ってくれたとき。 けれど、それらは「仕事の上での優しさ」に過ぎなかったのだと、今では思えてしまう。 若い彼女と話している唐津の横顔は、どこか楽しげで、穏やかで──。 ふと、唐津が顔を上げた。 その瞬間、こちらと目が合った。 動悸が跳ねる。 唐津は一瞬だけ視線を止めて、それから軽く顎を引いた。まるで「おつかれ」とでも言うような、あのたれ目気味の優しい目線。 それだけのことなのに、足元がふわりと浮いたような感覚に襲われた。 (……やめろ) 無理に目を逸らす。自分がどこを見ていたのか、ばれていなかっただろうか。唐津の視線が、まっすぐすぎて怖い。 こんな自分を、絶対に見せたくなかった。 *** その夜、眠れなかったのはまたしても同じだった。 部屋の灯りを落とし、ベッドに身体を沈めても、目を閉じるたびに唐津の顔が浮かんでくる。 仕事中に見た手元、喉元、目元──そして、あの柔らかな声。 (どうして、こんなに……) 願ってもいないのに、想像してしまう。 唐津の隣に立つ自分。ふと笑いかけられる自分。冗談のひとつでも言えるような、そんな距離感。 そして── (見つめられたい) その思いだけが、抑えきれないほど鮮明だった。 どこか気だるげな、少したれたあの目に、まっすぐ見つめられたい。 名前を呼ばれたい。あの低く、よく通る声で。 それがどれほど危うい願望なのか、わかっているのに、もう止められなかった。 ──触れてしまえば、戻れない。 その一線を越える勇気は、まだない。 けれど、心だけが、じわじわと先に進んでしまっている。 枕元のスマートフォンに手を伸ばす。 唐津の名前をスクロールして、トーク履歴を開く。 「ありがとうございました」とだけ打ったはずのメッセージの画面。 返事はなかった。けれど、それでいい。 そこに名前があるだけで、少しだけ安心する自分がいる。 (……ほんとに、まずい) 胸の奥にあるこの気持ちを、もう「仕事だから」「先輩だから」でごまかすことはできない。 蓋をしようとすればするほど、感情は膨らんでいく。 そして気づけば、目を閉じても、夢の中ですら──唐津のことばかりだった。

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