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第11話 見ないふりの代償
翌朝から、漆原は唐津を避けた。
フロアがL字に分かれているのをいいことに、営業戦略室側へ足を運ぶ頻度を意図的に減らす。出社後はすぐに自席に座り、デスクトップの画面を立ち上げて資料に没頭した。
唐津の姿が見える場所には立たない。会話が始まりそうなタイミングを避けて行動する。
──気づかれないように。
それは唐津のためでもあり、自分のためでもあった。
(こんな感情、抱いちゃいけない)
そう思うことで、ようやく息ができた。
唐津は自分に何もしていない。ただ、少し優しくしただけだ。それを勝手に特別視して、想いを育てたのは自分のほうだった。
ならば、自分で抑えるしかない。理性で、立場で、現実で押さえ込むしかない。
「部長、これ本日中のやつですけど……」
「あとで確認する」
眞壁が差し出した書類に目を通さず答えると、彼は少し驚いたように一瞬だけ動きを止めた。
「……了解です」
普段なら、軽く冗談のひとつでも返していた。
眞壁が緊張と尊敬の混ざったまなざしで話しかけてくるのを、どこかで可愛く感じていた。
けれど、今日は違った。
気を緩めれば、心の奥に隠した感情が顔を出してしまいそうだった。
だから、誰にも踏み込まれたくなかった。
特に、眞壁のような、部長にも近い存在には。
「……資料、先に出しておいてくれ」
「はい、もちろんです」
少し肩をすくめるような返事だった。漆原がよく知る、彼の「わかりました、今日は深入りしません」のサイン。
分かっている。こういうとき、眞壁は引いてくれる。
それでも、どこか胸がざわついた。
(……何やってんだ、俺)
周囲に壁を作って、感情に蓋をして、ただ目の前の業務に没頭する。
数字、案件、会議、提案書。
それだけを見つめていれば、心を守れると思っていた。
けれど、それは長くは続かなかった。
***
「……おい、漆原」
週の半ば。夕方。会議が終わった直後のことだった。
唐津の声に、心臓が一度止まりかける。
「……なんですか」
自分でもわかるほど、声が硬い。
それでも唐津はいつもの調子で、ポケットに手を入れながら言った。
「最近、全然顔見せねぇな」
「……業務が立て込んでるんです」
「ああ?」
ほんの一瞬だけ、唐津の目が細くなった。
それは、部下の様子がおかしいときに見せる、あの観察の目だった。
──まずい。
唐津に勘づかれたくない。それだけは絶対に避けたかった。
「失礼します」
漆原はそれ以上会話をせず、軽く会釈してその場を離れた。
すれ違いざま、唐津が何か言いかけたように見えたが、聞こえなかったふりをした。
聞こえてしまったら、止まってしまいそうだった。
***
夜、自宅のソファで目を閉じても、脳裏に浮かぶのは唐津の顔だった。
優しい視線。無言で差し出されたジャケット。
あの夜から、何も起きていないのに、感情は日に日に膨らんでいく。
(避けてるのに、どうして……)
想いを否定するほど、逆に心が騒ぐ。
目を背けるたびに、その奥で唐津の姿がくっきりと形を取っていく。
仕事に打ち込むことで何かを押さえ込もうとしたのに、その隙間からじわじわと染み出してくるような熱がある。
眞壁に冷たくした自分を思い返す。
唐津と話さずに逃げるように振る舞った自分を、誰かが見ていたような気がする。
そして何より、唐津が気づいている。
(気づいてるに決まってる)
あの人の目は誤魔化せない。あんなに人を見ているのに。
──なのに、唐津は何も言わない。
「何かあったか?」とも、「俺のこと避けてるか?」とも聞かない。
ただ、少し目が長く留まるだけ。あの、優しいたれ目で、黙って見てくる。
(……やめてくれ)
その視線が、いちばんつらい。
踏み込んでほしくない。でも、放っておかれるのも苦しい。
どうしてそんな顔で、何も言わずにいられるのか。
どうして、何も責めないままでいるのか。
ベッドに入り、布団をかぶっても、目の奥に焼きついたままだった。
唐津の声も、仕草も、視線も──
すべて、消えてくれない。
消えてくれないくせに、触れられない。
触れられないくせに、なぜか胸を締めつけてくる。
(……もう、限界かもしれない)
自分で選んだはずの「何もなかったことにする」選択が、静かに自分を壊しはじめていた。
****
翌日の夕方、エレベーター前で資料の入った封筒を持って待っていたときだった。背後から近づく気配に気づくより早く、低い声が耳元に届く。
「漆原」
ビクッとするほど反応してしまったのは、自分でも驚くほどだった。
振り返ると、唐津が立っていた。
上着のボタンを外し、腕に資料を抱えている。まるで帰り支度を済ませたような軽さのある佇まいだった。
「……なにか?」
精一杯、平静を装って答える。
唐津は数秒、漆原を見つめたあと、言った。
「飲みにいかないか。少しだけ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
何かが音を立てて崩れる。
(やめてくれ。今、誘わないでくれ)
そう思ったのに。
(でも……行きたい、唐津さんと……)
理性が断ろうとした。口が「無理です」と言いかけていた。
──けれど。
「……はい」
出たのは、たった一言。それも、思っていたよりずっと小さくて、素直すぎる返事だった。
自分で自分が信じられなかった。
唐津は、少しだけ目を見開いたように見えた。でも、すぐに柔らかく頷いてみせる。
「じゃあ、片付いたら連絡くれ」
そのまま歩き出す背中が、どこか安心したように見えた。
(何をやってるんだ、俺は)
エレベーターの扉が開いても、しばらく乗れずに立ち尽くす。
胸の奥がずっと疼いていた。
断れなかったのは、弱さか、欲か。
それとも、ほんの少しでも唐津の隣にいたいという、叶わない願いか。
──唐津に見つめられたその瞬間、
漆原の目の奥には、止められない熱がにじんでいた。
戸惑いと渇望が交錯するような光が、ほんの一瞬、表情の奥から零れ落ちていた。
(今だけ……少しだけだから……)
誰にも届かない問いが、心の奥で静かに響いていた。
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