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第73話 「柴」

三連休の初日。 カーテンの隙間から差し込む秋の柔らかな陽光が、寝室を白く染めていた。 昨夜の熱狂の余韻は、シーツの微かな乱れと、身体の芯に残る心地よい重だるさとして刻まれている。 漆原は、隣でまだ静かな寝息を立てている唐津の寝顔を数分間、瞬きも忘れて見つめていた。 (……本当に、ここにいるんだ) 夢ではない。 あの唐津が、自分のベッドで、自分と肌を重ね、今は無防備に眠っている。 その奇跡に胸が熱くなり、漆原はそっとベッドを抜け出した。 「……よし」 気合を入れ、キッチンへと向かう。 目標は、昨夜約束した「最高に美味しい朝食」だ。 漆原は、文字通り新品そのものの漆黒の炊飯器の前に立った。 「ええと、まずは電源を」 コンセントを差し込む。 すると、炊飯器の液晶パネルに、まるで宇宙船の計器のような複雑なメニュー画面が浮かび上がった。 『極め炊き』『銘柄芳醇炊き』『蒸気レスモード』『エコ炊き』……。 「なんだ、これは……」 漆原は立ち尽くした。 複雑な金融派生商品の仕組みを一瞬で理解する彼の頭脳が、目の前の調理家電を前に完全停止した。 説明書はどこだ。 いや、直感でいけるはずだ。 しかし、どのボタンを押せば「普通の白米」が炊けるのかが全くわからない。 「おい、何してんだ」 背後から、低く掠れた声がした。 振り返ると、髪を乱したままの唐津が、目をこすりながらキッチンに立っていた。 昨夜貸したTシャツが少しだけはだけて、鎖骨のあたりに薄い痕が見える。 「あ、唐津さん。おはようございます。その、炊飯器が……」 「おまえ、立ち尽くして何分経った?」 「……五分ほどです」 「五分もかよ! 普段料理もしねえくせに、こんなロボットみたいなもん買うからだろ」 唐津は呆れたように笑いながら、漆原の隣に並んだ。 「貸してみろ。……米、研いだのか? 水の量は?」 「研ぐ……。はい、ええと、ボウルはあります。水の量は、この……メモリまで、ですよね」 「おまえ、まさかそのまま水ぶっ込んだりしてねえだろうな。ほら、貸せ。こうやって研ぐんだよ」 唐津にからかわれ、漆原は耳を赤くしながら、必死に米を研いだ。 指先が冷たい水に触れる感覚さえ、今はどこか誇らしい。 なんとかセットを終え、唐津に教わった通り『炊飯開始』のボタンを押すと、炊飯器が「ピロリロリン」と軽快な音を立てた。 「……ふぅ。これで、なんとかなります」 「しょうがねえな、本当におまえは。……冷蔵庫、開けるぞ。何が入ってんだ?」 唐津が冷蔵庫の扉を開けた瞬間、その動きが止まった。 「なんだこれ……」 庫内には、まるで高級スーパーの陳列棚のような光景が広がっていた。 オーガニックの野菜セット、ブランド卵、一個数百円しそうな納豆、牛乳数種類、そしてお取り寄せの雰囲気を漂わせる無添加の味噌。 漆原が「完璧な朝」のために買い揃えた食材が、ぎっしりと詰め込まれている。 「すごいな。料亭でも開くつもりか?」 「いえ、その、少しでも美味しいものをと思って」 「で、『出汁』は? 味噌汁作るんだろ?」 「だし……。……あ、」 漆原は固まった。 「かつお節とか、昆布とか、あ、あるいは、ほんだし的な……」 「ないんだな、わかった」 唐津は「ははは!」と声を上げて笑った。 「野菜と卵は最高級。で、出汁がない。……おまえ、仕事の資料なら絶対そんなミスしねえのに、なんで私生活だとこんなに抜けてるんだよ」 からかわれているのに、漆原の胸の奥は、不思議な高鳴りを覚えた。 自分を笑う唐津。自分の家のキッチンで、自分の失敗を指摘する唐津。 その瞬間だった。 (ぴょん!) 漆原の心の中で、何かが跳ねた。 茶色の、ふわふわとした塊。 それは、一匹の柴犬の子犬だった。 その子犬は、漆原の内側で、ちぎれんばかりに短い尻尾を振りながら、猛烈な勢いで跳ね回った。 (かーつさん! かーつさん、だいすき!) (かっこいい! 料理できる!きびしいのにやさしい ! かっこいいい!) 「……え?」 漆原は思わず声を漏らした。 「漆原? どうした、急にフリーズして」 「い、いえ。なんでもありません」 漆原は必死に表情を繕った。しかし、心の中の柴犬は止まらない。 (だいすき! 料理してる背中、かっこいい! おいしそう! 旦那さん! ……でも、昨日の夜は……かわいかったぁ……っ!) (や、やめろ! 思い出すな!) 漆原は心の中で絶叫した。 昨夜の、あの無防備に声を漏らし、自分にすべてを委ねていた唐津。 体育会系のノリで「やりきったな!」と笑った、あの眩しい姿。 思い出すだけで、鼻の奥が熱くなる。 (昨日の話は今はなしだ! 今は朝食の時間なんだよ!) 「漆原、おまえ、さっきから顔が百面相になってるぞ。大丈夫か?」 唐津が怪訝そうな顔で、卵を片手で割りながらこちらを見ている。 その手慣れた動作に、また柴が騒ぎ出す。 (片手割り! かっこいいい!) 「……っ、なんでもないです! 俺、コーヒー淹れます!」 漆原は逃げるようにネスプレッソのマシンの前へ移動した。 カプセルを選び、ボタンを押す。 ウィーンという機械音が、心の中の柴の鳴き声をかき消してくれることを祈りながら。 やがて、キッチンには炊き立ての米の甘い香りが漂い始めた。 テーブルに並んだのは、ツヤツヤの白米、ふっくらとした卵焼き、高級な納豆に刻みネギ、そして瑞々しいサラダ。 シンプルだが、これ以上ないほど贅沢な朝食だ。 「いただきます」 二人の声が重なる。 唐津が作った卵焼きを一口食べた瞬間、漆原の心の中の柴が「わふー!」と歓喜の声を上げた。 (おいしい! かーつさんの味! けっこん! これ、実質結婚!) 「漆原、おまえ、納豆混ぜる手が止まってるぞ」 「あ、すみません……美味しいです。本当に」 「そりゃ良かった。……しかし、この納豆、一パックで俺の昼飯代より高いんじゃねえか?」 唐津が笑いながら米を口に運ぶ。 その穏やかな空気、箸が触れ合う音、時折交わされる他愛もない会話。 一週間前、ガラスの壁越しに絶望していた自分に見せてやりたいほどの、幸福な風景。 (だいすき……ずっとこうしていたい……) 柴が落ち着いたトーンでくぅん、と鳴く。 漆原もまた、同じ気持ちだった。 「……さて」 食後のコーヒーを飲み終え、唐津が伸びをした。 「シャワー浴びて着替えたら、足りない調味料買いに行くぞ。出汁もねえ、みりんも酒もねえ。おまえの部屋、見た目だけ立派で中身スカスカなんだよ」 「あ、はい。ぜひ」 唐津がさらりと言った「買い出し」の提案。 その言葉に、大人しくなっていた柴が再び爆発した。 (デート! おうちデートの準備! お買い物! けっこん! 夫婦の共同作業! けっこんんんん!) (やめろ! けっこんって言うな! 調味料買いに行くだけだ!) 「漆原、なんでまたプルプル震えてんだ? 寒いのか?」 「い、いえ! 準備します! すぐに!」 漆原は立ち上がり、脱兎のごとく洗面所へ向かった。 背後で唐津が「なんだあいつ……」と呆れる声が聞こえたが、今の漆原には止まることができなかった。 鏡の中の自分は、自分でも見たことがないほど、しまりのない幸せそうな顔をしていた。 心の中の柴犬は、今や部屋中(脳内)を駆け回り、主人の「だいすき」という感情を撒き散らしている。 これから、唐津と一緒に外に出る。 隣を歩き、同じ棚を見つめ、夕食の献立を相談するのかもしれない。 (落ち着け、漆原崇彦。おまえは東都証券の第一部部長だ。冷静になれ) 自分に言い聞かせながらも、漆原の手は、クローゼットの中で一番「唐津に褒められそうな」シャツを必死に探していた。 内なる柴との、騒がしくも甘い葛藤の日々は、まだ始まったばかりだった。

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