73 / 74

第72話 約束の深度

浴室から漏れる規則的な水の音が止まり、静寂が寝室を支配した。 漆原はベッドの端に腰掛け、膝の上に置いた自分の手を見つめていた。その指先は、期待と極度の緊張で微かに震えている。一週間、画面が暗くなるまで読み漁った膨大な知識が、今は重圧となって肩にのしかかっていた。 (絶対に、失敗できない。二度と、あんな思いはさせない) 心臓の鼓動が、静かな部屋の中でうるさいほどに響く。 やがて、ドアが開く音がして、湯気を纏った唐津が姿を現した。 Tシャツに短パンというラフな姿で、湿った髪を無造作にかき上げている。 その表情は、普段の「営業戦略部長」のそれとは程遠く、どこか強張っていた。 「……待たせたな」 「いえ。……唐津さん、あの、何か飲みますか?」 漆原は弾かれたように立ち上がった。 唐津はベッドの傍まで来ると、少し考え、喉の奥を鳴らして答えた。 「……じゃあ、さっきと同じビール。グラスはなくていいから」 「わかりました」 キッチンへと向かう漆原の背中を、唐津は言葉少なに見送った。 唐津自身、これほどまでに心臓がうるさく鳴る経験は久しぶりだった。 アルコールを流し込み、勢いをつけなければ、自分の中にある最後の一線が恐怖で震えてしまいそうだった。 漆原が持ってきたビールの缶を受け取り、唐津はそれを一気に、半分ほど飲み干した。 苦味の強いクラフトビールが、熱を持った喉を滑り落ちていく。 「………」 グラスをサイドテーブルに置いた唐津の腕を、漆原がそっと取った。 吸い寄せられるように、どちらからともなく唇が重なる。 一歩目、二歩目と、どちらかが踏み出すたびにキスは深くなり、舌が絡み合い、互いの熱い吐息が混ざり合っていく。 「……っ、唐津さん」 漆原の手が、Tシャツの裾を握った。 布の下に手を滑らせると、熱い素肌が触れる。 唐津は自分からTシャツを脱いだ。 シーツの上に仰向けになった唐津の体は、鍛えられてはいるが、どこか無防備で、風呂とアルコールのせいかわずかに色づいて見えた。 漆原は、背を丸めて唐津の肌に触れていく。 それは、献身的なまでの愛撫だった。 漆原は、唐津の反応を一つも見逃さないよう、食い入るようにその表情を見つめながら、唇と手を使って、ゆっくりと、丹念に解きほぐしていった。 唐津のものを口に含んで、舌を滑らせる。 前回の、勢い任せの荒っぽさは微塵もなかった。 ただひたすらに、唐津の緊張を快楽で塗り替えることだけを目的とした、丁寧な所作だった。 「ぁ……漆原……っ」 唐津の喉から、掠れた声が漏れる。 漆原の舌先が、一番敏感な場所を優しく、執拗に刺激するたび、唐津の指が漆原の髪に深く食い込んだ。 十分に熱を持ったのを見計らい、漆原は顔を上げ、潤んだ瞳で唐津を見上げた。 「……唐津さん。こっちのほうが、身体が楽らしいので」 漆原は、唐津を四つん這いの姿勢――後背位へと導いた。 唐津は言われるがままに腕をついたが、その背中の筋肉は、これから訪れる「未知」と「記憶」に備えて、硬くこわばっている。 漆原は、用意しておいたローションを手に取り、唐津の後ろへと指を伸ばした。 ひんやりとした感触に、唐津の体が大きく跳ねる。 「……っ、ぐ」 「痛いですか? やめますか?」 漆原が手を止め、心配そうに声をかける。その声は震えていた。 唐津は顔を伏せ、シーツを固く握りしめたまま、低い声で言い切った。 「……いいから、続けろ。もう聞くな、漆原」 それは、退路を断つ男の決意だった。 「嫌だったらやめていい」という甘えを自分に許せば、一生この恐怖を乗り越えられない。 その不退転の姿勢に、漆原は胸を打たれる。同時に、この男が自分に預けてくれた信頼を、絶対に裏切ってはならないと強く誓った。 「ッ、はい。わかりました」 漆原は、唐津のうなじにそっと唇を寄せ、もう片方の手で唐津の前を優しく愛撫しながら、後ろを丁寧に、時間をかけて解いていった。 指を一本、二本と増やしていく。 漆原の動きは、驚くほど慎重だった。 唐津の呼吸が苦しげに乱れるたびに、漆原は背中を撫で、落ち着かせるように何度もキスを落とした。 「……入れますね」 唐津は答えなかった。 ただ、深く、長く、息を吐き出す音が聞こえた。 「力、抜いてください。大丈夫です。痛くないですから……」 漆原は呪文のように優しい声をかけながら、唐津のうなじを食むようにキスし、ゆっくりと、自分を沈めていった。 「っ……あ、ぐ……」 「大丈夫ですか。痛くないですか」 「……痛くない、けど。……変な、感じだ」 「変に感じて当然です。初めての感覚ですから。……ゆっくりしますから、無理なら言ってください」 漆原は、半分ほど入ったところで動きを止めた。 唐津の体が拒絶反応を起こさないよう、馴染むのを待つ。 漆原の指が唐津の脇腹をなぞり、耳元で熱い吐息を漏らす。 「……もう入ったのか?」 「あと、少しです……」 漆原は残りの半分を、慈しむように、けれど確実な重みを持って押し進めた。 「……っ、あ、ぁああ……っ」 唐津が声を殺し、肩を震わせる。 「……全部、入りました」 漆原が告げたが、唐津に返事をする余裕はなかった。 額から流れた汗が、シーツに点々と染みを作っている。 呼吸は絶え絶えで、目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。 漆原は、汗ばんだ唐津の背中に、何度も、何度も、謝罪と感謝を込めてキスをした。 「動きますね」 漆原は腰を使い、ゆっくりと、本当にゆっくりと動き始めた。 唐津が苦しくないように。そして、自分が調べ上げた「知識」が、唐津にとっての「快楽」に変わるように。 一突きごとに、唐津の反応を確かめる。 最初は苦しげだった唐津の吐息が、次第に熱を帯び、言葉にならない声が漏れ始めた。 「あ……っ、そこ、は……ひぅ……っ」 「ここ、ですか……?」 「ぁあ……漆原、待て……っ、あ、あ、ぁ!」 苦悶だけだった唐津の声が、快楽の色に染まっていく。 漆原は、唐津の前を刺激する手の速度を上げた。 中から突き上げられる衝撃と、前を弄られる熱。 その二重の刺激に、唐津の背中が弓なりに反り、激しく震えた。 「ぁ、あ、っ、もう……無理……っ、漆原!」 「俺も……っ、唐津さん……ッ!」 漆原が唐津の腰を強く抱き込み、深い場所を突き上げた瞬間、二人の視界は真っ白な光に包まれた。 静まり返った寝室に、重なり合う二人の荒い呼吸音だけが響く。 漆原はすぐに離れようとはせず、唐津の背に顔を埋めたまま、その震えを鎮めるように抱きしめ続けていた。 「唐津さん、大丈夫、ですか?」 しばらくして、漆原が震える声で尋ねた。 心配でたまらないといった表情だ。 すると、唐津がゆっくりと体を反転させ、仰向けになった。 その顔は、汗でぐっしょりと濡れ、髪は乱れていたが、驚くほど晴れやかな、どこか清々しい笑みを浮かべていた。 「……やりきったな!」 唐津は、天を仰ぐようにして笑った。 「やればできるじゃんな、俺」 その、あまりにも体育会系なノリの第一声に、漆原は拍子抜けし、そして次の瞬間、堪えていた感情が溢れ出した。 漆原は唐津の胸元に顔を押し当て、子供のように泣きそうになりながら、掠れた声で言った。 「……ッ、一生大事にします。本当に、ありがとうございます……っ」 あまりにも真剣な、そして重すぎる愛の告白。 唐津は一瞬呆気にとられたが、すぐに噴き出した。 「ははっ! なんだよそれ、プロポーズかよ」 唐津はそう言うと、汗ばんだ漆原の髪を優しい手つきで撫でた。 漆原もまた、唐津の濡れた前髪を指で払い、その額に、そして唇に、何度も何度も、先ほどまでの激しさとは違う、慈しむようなキスを落とした。 三連休の初日の夜。 窓の外には、東京の街並みが広がっている。 漆原のキッチンのカウンターでは、まだ一度も稼働していない最新の炊飯器が、静かに明日の朝を待っていた。 二人の間を隔てていた、プライドや恐怖という壁は、今、瓦解した。 そこに残ったのは、お互いの体温と、心地よい疲労感。 そして、温かい日常の予感だった。 「……明日、米、炊けよな」 「はい。最高に美味しい朝食にします」 二人は笑い合い、互いの素肌に触れたまま深い眠りへと落ちていった。

ともだちにシェアしよう!