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第71話 決心の温度

人形町の賑わいからタクシーで数分。 漆原の住むマンションの静かなエントランスを抜ける間、二人の間には、まるで高圧電線が張り巡らされているような緊張感が漂っていた。 隣を歩く漆原は、さっきから一言も発していない。 ただ、耳の付け根がうっすらと赤い様子が視界の端に見える。 居酒屋で「飲み直そう」と唐津が告げた瞬間の、あの泣き出しそうな、それでいて全身の細胞が歓喜に震えているような漆原の顔が、唐津の脳裏に焼き付いて離れなかった。 部屋に入ると、一週間前と変わらない、住人の個性をそのまま表現したような整頓された無機質な空間が広がっていた。 だが、キッチンカウンターの端に、明らかに以前はなかった「異物」が鎮座しているのが唐津の目に入った。 「……おい、漆原。これか?」 唐津が指差したのは、マットなブラックの質感が鈍く光る、最新鋭の高級炊飯器だった 。家電量販店の最上位モデルの棚に並んでいるような、およそ自炊をしない男の一人暮らしには不釣り合いな代物だ。 「あ、はい……。その、一番美味しく炊けるというレビューを信じて」 「おまえ、これ、一回でも使ったのかよ」 「いえ、まだ。……唐津さんが来たらって思って」 漆原が大真面目な顔で答えた。 「おまえな、炊飯器ってそういうもんじゃないだろ」 唐津は思わず吹き出した。漆原という男は、本当に極端だ。 米を炊く習慣さえなかったくせに、唐津が一度「朝メシ」と口にしただけで、数万円もする機材を揃えて待っている。 「馬鹿だな、おまえ。……でも、ありがとな」 「いえ……。あ、ビール、冷蔵庫に入ってます。唐津さんが好きなクラフトビールの、限定品が出ていたので」 漆原が手際よくキッチンへ向かう。 その後ろ姿を見ながら、唐津は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。 一週間、自分が「男としてのプライド」だの「痛みへの恐怖」だのに囚われて逃げ回っていた間、この男はただひたすらに、自分が戻ってくる場所を整えていたのだ。 自分への過剰なまでの気遣いが、刺さるように身に染みる。 「……乾杯するか」 ソファの前のローテーブルに、冷えたグラスとクラフトビールが並ぶ。 カチン、と薄いガラスが触れ合う音が静かな部屋に響いた。 「美味いな、これ」 「良かったです。……少し、苦味が強いタイプを選びました」 会話はそこで途切れた。 さっきまでの居酒屋の喧騒が嘘のように、四方を壁に囲まれた空間では、お互いの呼吸の音まで聞こえてきそうだった。 隣り合ってソファに座っている。 けれど、その距離はわずか数十センチなのに、果てしなく遠いようにも感じられた。 唐津は意識的にビールの喉越しを楽しみ、漆原はグラスの淵を指先でなぞり続けている。 唐津がこの一週間、漆原を避けていた理由。 それは「次」に進むことが、怖かったからだ。 もう一度、漆原に抱かれる自分。 主導権を奪われ、無防備に晒される肉体。 それを受け入れることは、長年積み上げてきた「唐津涼介」という男の虚飾をすべて剥ぎ取ることと同義だった。 沈黙に耐えかねたのか、漆原がポツリと口を開いた。 「唐津さん」 「ん?」 「……“次”は、今じゃなくて大丈夫です」 漆原の声は、微かに震えていた。 彼はグラスをテーブルに置き、膝の上で自分の手をぎゅっと握りしめている。 「唐津さんがいいって言うまで、俺、いくらでも待ちます。……一ヶ月でも、一年でも。もし、一生できなくっても、構いません。ただ……」 そこまで言って、漆原は唐津を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、まるで捨てられるのを覚悟した仔犬のように、悲痛な光を帯びていた。 「……もう会うのやめるって言わないでください。俺の隣にいてくれるなら、それだけでいいんです。俺、唐津さんが嫌がることは、絶対にしません。だから……」 唐津は胸を締め付けられた。 漆原は、唐津の葛藤を自分の「せい」だと思い込んでいる。 自分が逃げ出したのは、漆原に非があるからだと。自分が嫌がっているからだと。 「……漆原。おまえな」 「……俺に触られるの、嫌でしたか。やっぱり、あの時、男同士なんて無理だと思わせちゃいましたか」 追い詰められた後輩の質問に、唐津は逃げ道を失った。 ここで嘘を突き通すのは、もう無理だった。 「……嫌なわけねえだろ。嫌だって思ったら、あんなことしてない」 唐津は自嘲気味に笑い、飲みかけのビールを一気に煽った。 「でも、ぶっちゃけ怖いのは本当だ。逃げ回ってたのも、それが理由だよ」 「……怖い、ですか」 「ああ。あの、 出張の時。……正直、めちゃくちゃ痛かった」 漆原の顔が、一瞬で真っ青になった。 「あ……っ、すみません……! 俺、その……本当に、申し訳ありません……っ」 今にも泣き出しそうな顔で平謝りする漆原を見て、唐津は思わず声を立てて笑ってしまった。 「いいよ、謝るな。別に後悔してないし。ただ、おまえがあんまりにも必死だったから、言い出せなかっただけだ」 「でも……! 俺、ちゃんと勉強しました。痛くないように、どうすれば唐津さんが……その、気持ちよくなれるか。検索して、たくさん調べたんです」 「……おまえ、検索したのかよ。そんなこと」 「はい。……死ぬ気で調べました」 大真面目に「死ぬ気で」と言い切る最年少部長。 そのあまりの滑稽さと愛おしさに、唐津の中の最後の「鎧」がボロボロと崩れ落ちていく。 漆原は唐津を壊そうとしているのではない。 大切にしたくて、必死で慣れない領域に足を踏み入れようとしているのだ。 また、沈黙が訪れた。 テレビのついていない部屋に、エアコンの稼働音だけが虚しく響く。 唐津は自分の心臓の音を数えながら、一つの決断を下した。 今夜、ここで踏み込まなければ、一生「臆病な男」のままだ。 漆原の献身に甘え、相手の不安を放置したまま、都合のいい関係を続けるだけになってしまう。 それは、唐津のプライドが許さなかった。 「……いいよ」 唐津の声が、少し掠れた。 「え?」 「やってみる。今、決めた」 漆原の瞳が大きく見開かれる。 「でも……唐津さん、無理は……」 「今度、俺の覚悟が決まるのを待ってたら、次がいつになるかわからねえぞ。いいのか? 」 「それは……でも、俺はいくらでも待ちます……っ」 漆原はそう言いながら、堪えきれないというように唐津の肩を掴んだ。 漆原の体温が、シャツ越しに伝わってくる。 その瞳には、すでに獲物を捉えた獣のような、あるいは心酔する神を仰ぐ信者のような、濃密な欲望が宿っていた。 「待ちますって……言いながら、そんな顔すんなよ」 唐津が言うか言わないかのうちに、漆原の唇が重なった。 一週間、待ち焦がれていた温度。 ビールの苦味と、漆原自身の少し熱い息が混ざり合い、深いキスへと変わっていく。 漆原の舌が、唐津の口内をねだるように這う。 優しく、けれど断固とした意志を持って。 唐津は漆原の首筋に手を回し、その体を引き寄せた。 「……本当に、いいんですか」 唇が離れた瞬間、漆原が掠れた声で囁いた。 「……何回も聞くな。決心が揺らぐ」 唐津は漆原の額に自分の額を押し当て、荒くなった息を整えようとした。 「……痛くしないって、約束しろよ」 漆原が、微かに笑った。 それは、唐津が今まで見たどんな顔よりも強く、男らしく、そして危険な笑みだった。 「……はい、全力を尽くします。唐津さん」 漆原の手が、唐津のネクタイに掛かる。 最新の炊飯器が置かれた静かな部屋で、二人の「次」が、逃れようのない熱を持って動き出した。

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