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第70話 金曜夜のロスタイム
「やっぱり、こういうのが一番落ち着くよな」
人形町の片隅にある、威勢のいい掛け声が飛び交う大衆居酒屋。
唐津は、使い込まれたカウンターの端で、焼酎のロックを転がしながらそう言った。
目の前には、味噌が絶妙に効いた鯵のななめろう、出汁の香りが立つ揚げ出し豆腐、そして脂の乗った旬の刺身が並んでいる。
漆原は、最初の一杯であるビールをちびちびと飲んでいた。
19時にロビーで唐津を待っていた時、歩いてくる彼の姿が見えただけで、漆原の視界は滲みそうになった。
けれど今は、隣に唐津の肩を感じ、同じ料理を突いている。
その「日常」の欠片が、一週間分の渇きを潤していく。
「案件、どうだ。一部の進捗は?」
唐津が、大根のツマを箸で寄せながら聞いた。
「……順調です。若手も自走し始めました。眞壁がうまく回してくれています」
「眞壁か。あいつ、元気いいもんな。新人のメンタルはどうだ? 本店は詰めが厳しいから、パンクしなきゃいいけど」
仕事の話。東都証券のエースとして、ごく普通の、部長同士の会話だ。
月曜日から木曜日まで、ガラスの壁越しに接していたのが嘘のように、会話が滑らかに流れていく。
漆原は、このまま仕事の話だけで夜が更けてもいいとさえ思った。
今の自分には、唐津の声が鼓膜を震わせている事実だけで十分だった。
「そういえば、本堂がさ」
唐津が焼酎を一口煽り、おかしそうに鼻を鳴らした。
「銀座でナンパした女の子に本気で入れ込んでるらしくてさ。モデルだかなんだか知らねえけど。あいつ、見栄張って背伸びしすぎだろ。財布が潰れる前に心が潰れねえか、俺、心配だよ」
「本堂くんが……そうですか」
漆原は微笑んだ。
けれど、同時に背筋がわずかに強張る。
『恋愛』の話。
自分たちが一週間、あえて避けてきた、最も熱くて、最も脆い場所に会話が触れたからだ。
漆原の指先が、グラスの結露をなぞる。
途端に、昨日までの狂おしい検索履歴が脳裏をよぎった。
連絡がない理由、嫌われた時の挽回方法、男同士の……。
漆原の様子が急に硬くなったことに気づいたのか、唐津はグラスを置いて、少しだけ体を漆原の方へ向けた。
「……漆原。緊張すんなよ」
「っ、してません」
「してるだろ。眉間に皺寄ってるぞ。仕事の話は終わりだ。今はただの、飯の時間だろ」
唐津の、少しだけ酒の入った柔らかい声。
一週間、その声で呼んでほしかった。
漆原は俯き、自分の膝の上で手を握りしめた。
「……今日」
「ん?」
「今日、唐津さんに声をかけられなかったら、いよいよ自分はダメだと思っていました。明日から、三日も休みで。三日も……会えないのは、その」
『つらすぎる』。
その言葉を、漆原は必死に飲み込んだ。
重すぎる。
そんなことを言えば、また唐津を追い詰めてしまう。
唐津がこの一週間、なぜ自分を避けていたのか、その理由は正確にはわからなかったけれど、「次」に進むのが怖いのかもしれないという予感はあった。
嫌がることは、絶対にしたくない。
困らせたくない。
でも、好きすぎて、自分がどうすればいいのか分からない。
漆原は、泣き出しそうな顔を隠すように、強く目を閉じた。
そんな彼を、唐津は眩しそうに、そしてどこか諦めたように見つめていた。
自分が必死に「部長」の鎧を着て、適度な距離を保とうとしていたのが、どれほど馬鹿らしく、無駄な抵抗だったかを思い知らされる。
「おまえ、ほんと子犬だな……」
唐津の口から、漏れるような呟きがこぼれた。
「え?」
「いや……。そういえば、マグカップ買ったんだっけか。この前言ってたよな」
不意に振られた話題に、漆原は弾かれたように顔を上げた。
「あ、はい! 買いました。白と、紺色の。……あと、炊飯器も買いました」
「マジかよ」
唐津が、本気で呆れたように笑い出した。
マグカップどころか、生活の基盤をアップデートして待っている。
その徹底した「迎撃態勢」が、いかにも漆原らしくて、唐津の胸の奥にある最後の手すりが外れた音がした。
「炊飯器なんて、プロテインバーが主食のおまえに必要ねえだろ」
ふざけて言いながら笑う唐津の喉元を漆原の視線が見つめている。
「だって、唐津さんが……その、また……朝……」
一点の曇りもない瞳、その瞳が期待と不安で激しく揺れている。
その熱に、唐津は降参した。
プライドだの、主導権だの、男同士だの、痛みが怖いだの。
一人で酒を飲みながらこねくり回していた理屈が、漆原の「朝食を食べてほしい」という純粋な願いの前では、ゴミのようなちっぽけなものに思えた。
「……しょうがねえな」
唐津は、カウンター越しに腕を伸ばし、漆原の少し長めの前髪の上から、その頭をぽん、と大きな手で叩いた。
「っ、」
「炊飯器があるなら、朝メシ食わないとな」
漆原は、呼吸を止めた。
頭の上に置かれた手の重みと、そこから伝わる確かな体温。
夢ではないのだと、脳が理解する前に心臓が大きく波打つ。
「店、そろそろ出ようか」
唐津が伝票を手に取る。
漆原が慌てて財布を出そうとするのを制して、彼はさらりと言った。
「飲み直そうぜ。……おまえの家で」
一瞬、居酒屋の喧騒が遠のいた。
漆原は、自分の心臓の音が通りの車の音よりも大きく響いているのを感じた。
その言葉が何を意味するのか。
月曜日からずっと、自分が怯え、求め、検索し、思い悩んでいたことの答えが、今、唐津の口から告げられたのだ。
「……はい」
漆原は、泣くのを堪えるように唇を噛んだ。
けれど、その表情は、今にも千切れそうなほど尻尾を振っているのが見えるほど、幸福に満ち溢れていた。
「はい、唐津さん。……帰りましょう」
店を出た二人の背中に、秋の
夜風が吹き抜ける。
まだ少し怖い。けれど、漆原の心の中では、あの白いマグカップにコーヒーを注ぐ準備が、もうとっくに整っていた。
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