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第69話 19時の救い

火曜日から木曜日までの三日間、東都証券本店営業第一部のフロアは、まるでシベリアのような静寂と、戦場のような殺伐とした空気が交互に支配していた。 その中心にいる漆原崇彦は、誰の目から見ても「完璧な部長」だった。 下期の戦略を練り直し、若手の同行案件を捌き、役員会への報告資料を寸分の狂いもなく仕上げる。特茶のペットボトルがデスクに並び、昼食代わりにプロテインバーを齧る姿は、ストイックなマシーンそのものだ。 だが、その内側は、とっくに限界を迎えていた。 「部長、昨日の約定件数、修正終わりました」 「……ああ、確認する」 眞壁が声をかけても、漆原の反応は一拍遅れる。返る声は低く、どこか生気がない。 仕事にミスはない。判断も的確だ。だが、ふとした瞬間に窓の外を見つめるその横顔は、今にも崩れ落ちそうなほどに青白い。 (死ぬ……いや、もう死んでいるのかもしれない) 漆原は、キーボードを叩く指先の感覚が麻痺していくのを感じていた。 月曜日の、あの唐津の「シャッターを下ろした」ような態度。それから三日間、廊下ですれ違っても、エレベーターで一緒になっても、交わされるのは「お疲れ様です」という事務的な挨拶のみ。 唐津の瞳には、かつての自分に向けられていたはずの柔らかい熱が、ひとかけらも残っていないように見えた。 一度手に入れたと思った幸福が、砂の城のように崩れていく。 「ちゃんと考える」と言ったあの言葉は、もしかして「どうやって別れるか」を考えるという意味だったのだろうか。 「次」を期待してマグカップを揃えた自分の浅ましさが、今さらながらに恥ずかしくて、胸の奥が焼けるように痛い。 漆原のスマートフォンは、今や情報の墓場と化していた。 夜、一人きりの寝室で、あるいは昼休憩の個室トイレで、彼は憑りつかれたように検索窓を埋め尽くしていた。 『男同士 痛くない 準備』 『恋人 連絡がない理由 心理』 『急に距離を置く 男性 本音』 『嫌われた 挽回 方法』 『気持ちよくさせる コツ 男性』 検索履歴は、もはや迷走の極致だった。 論理的思考が武器の最年少部長とは思えないほど、オカルトに近い恋愛コラムから、生々しいハウツーサイトまでを読み漁る。 「相手のペースを尊重しろ」というアドバイスを読めばじっと耐え、「自分から動かないと終わる」という記事を読めば胃をキリキリと痛ませる。 唐津のプライドを傷つけず、けれど自分の存在を忘れさせないための正解は、検索結果の1ページ目にも、100ページ目にも載っていなかった。 「……はぁ」 思わず漏れた溜息に、隣のデスクの眞壁がびくりと肩を揺らす。 「部長、本当に大丈夫ですか? 顔、真っ白ですよ。明日からの三連休、しっかり休んでくださいね」 「……連休か」 カレンダーを見て、漆原は愕然とした。 今日を逃せば、三日間。まるまる三日間、唐津の姿を見ることすらできなくなる。 今のこの冷え切った関係のまま連休に突入すれば、休み明けには、唐津との接点は本当に「戦略部と営業部」という職務上の境界線だけになってしまうのではないか。 焦燥が、冷たい汗となって背中を伝う。 今日、唐津に帰られたら。 「お疲れ」の一言で背中を向けられたら。 いよいよ、自分は本当に死んでしまう。 時間は無情にも17時を過ぎ、定時が訪れる。 若手社員たちが少しずつ帰り支度を始める中、漆原は動けずにいた。 視線は、フロアの向こう側――戦略部の島に釘付けになっている。 唐津が席から立ち上がり、部下に何かを命じている。 帰ってしまうかもしれない。 あのエレベーターの向こうへ、自分の届かない場所へ。 漆原は、弾かれたように席を立った。 「部長?」という眞壁の声を無視し、早足で戦略部の方へと向かう。 心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされ、耳の奥でドクドクと血流の音がする。 席を立った唐津が廊下に出る直前。 漆原は、搾り出すような声で呼んだ。 「唐津さん」 唐津が足を止める。 ゆっくりと振り返ったその表情は、やはり完璧な「部長」の顔をしていた。 漆原は、その鉄壁の表情の前に立ちすくむ。 「……なんだ、漆原」 「あの……その、」 言葉が、喉の奥で渋滞を起こした。 ──飲みに行きませんか ──もう俺とは会わないんですか ──俺、何かしましたか 言いたいことは山ほどある。喉元まで出かかっている。 けれど、唐津のあのフラットな視線を前にすると、それらの言葉はすべて「重すぎる害悪」に思えて、声にならない。 ここで無理強いをしたら、本当に嫌われる。 でも、言わなければ終わる。 漆原の指先が、スーツの裾をぎゅっと握りしめる。 冷徹な部長としての仮面はとっくに剥がれ落ち、そこにあるのは、捨てられるのを待つ仔犬のような、悲痛なまでの必死さだった。 唇が戦慄き、視線が彷徨う。 「あの……ええと……」 数秒、あるいは数分に感じられた沈黙。 漆原の顔は、今にも泣き出しそうな、あるいは過呼吸で倒れそうなほど、追い詰められていた。 それを見つめる唐津の瞳が、わずかに揺れた。 (……ああ、もう。本当に弱ったな、こいつは) 唐津は心の中で、深い、深い溜息をついた。 この一週間、自分がどれだけ必死に「安全圏」に立てこもろうとしてきたか。 傷つけないように、怖がらせないように、そして自分が傷つかないように、完璧な壁を築いてきたつもりだった。 けれど、目の前で死にそうな顔をして震えている漆原を見て、その壁はあっさりと、音を立てて崩壊した。 こんな顔をさせておいて、俺は何がプライドだ、何が怖さだ。 この男をがっかりさせたくない、その一点で足踏みをしていたつもりが、結局一番がっかりさせているのは自分自身だった。 唐津は少しだけ眉を下げて、困ったような、それでいてひどく柔らかい苦笑を浮かべた。 「……19時に上がる」 「……え?」 漆原が、弾かれたように顔を上げる。 「19時。まだ仕事残ってんだろ。片付けて、下で待ってろ。……一杯、いくか」 その瞬間。 漆原の表情が、目に見えて劇的な変化を遂げた。 絶望に染まっていた瞳に、一気に光が宿る。 青白かった頬に、じわじわと赤みが差し、強張っていた肩の力がふっと抜ける。 もし尻尾があったなら、確実にフロアの空気をかき乱すほど激しく振り回されているのが分かるほど、全身から「喜び」が溢れ出していた。 「は、はいっ……」 声が上ずっている。 本当は「嬉しいです」とか「待ってました」とか、もっと気の利いたことを言いたいのに、溢れる感情が多すぎて、「はい」以外の言葉が機能しない。 漆原は、首が折れそうなほど深く頷いた。 その様子を、唐津は「しょうがねえな」という顔で見つめる。 けれど、その瞳の奥には、一週間ぶりに灯った、確かな愛おしさが滲んでいた。 「……走るなよ。落ち着いて仕事しろ」 「はい! 19時、絶対に行きます!」 漆原は、まるで世界中の宝物を手に入れたかのような顔で、自分のデスクへと戻っていった。 さっきまでの幽霊のような足取りはどこへやら、背筋をピンと伸ばし、足取りも軽い。 自席に戻った漆原は、猛然とキーボードを叩き始めた。 19時まで、あと1時間半。 死ぬ気で仕事を終わらせる。 検索履歴のことなんて、もう半分くらい頭から飛んでいた。 ただ、唐津が笑ってくれた。 誘ってくれた。 それだけで、漆原の凍てついていた世界は、一気に春の陽光に包まれた。 フロアの向こう側で、唐津もまた、自分のデスクに戻りながら、こっそりと口角を緩めていた。 (……まったく、敵わねえな) 一週間分の葛藤が、たった一つの「はい」で溶けていく。 今夜、何が起きるのか、自分たちがどこへ向かうのか。 まだ怖さはある。けれど、あの顔をもう一度見られるなら、少しだけ踏み出してみてもいい。 時計の針が、19時に向かって、静かに、けれど確実に進み始めていた。

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