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第68話 安全圏の境界線
月曜日の夜、唐津は逃げるように会社を後にした。
いつもなら、エレベーターホールで第一部の島をさりげなく振り返り、漆原の仕事の進み具合を確かめてから声をかけるのがここ数週間のルーティンになっていた。だが、今日はその数秒のアイコンタクトすら恐ろしかった。
背後で閉まるエレベーターの扉の音に、どこか安堵している自分が情けない。
一階のロビーを早足で抜け、夜の街に溶け込む。ネクタイを緩め、冷たい夜気を肺の奥まで吸い込んだが、胸の奥に詰まった重苦しい塊は消えてくれなかった。
「……最低だな、俺」
自嘲気味に呟いた言葉が、白く濁って消えていく。
自覚はある。確信犯的に、漆原を避けている。
昼間、デスクまで資料を持ってきた漆原の、あの縋るような、不安げに揺れた瞳。
本来なら「ゴルフ、今度はおまえも行くか?」とか「またゆっくり飲もうぜ」とでも言ってやるべきだった。それが大人の、そして「先輩」としての余裕ある振る舞いのはずだ。
けれど、現実は仕事の顔であいつを追い返してしまった。
漆原がどれほど傷ついたか、想像に難くない。あいつは不器用で、真面目で、一度信じた相手には驚くほど真っ直ぐに体ごとぶつかってくる。その熱量を、自分は今、冷徹な「上司の顔」という盾で弾き飛ばしているのだ。
そのまま真っ直ぐ帰宅する気になれず、唐津は馴染みのオーセンティック・バーの扉を潜った。
静かなジャズが流れ、琥珀色のボトルが並ぶカウンター。ここに来れば、仕事の責任も、複雑に絡まった人間関係も、すべてアルコールの中に溶かせると思っていた。
「……ラフロイグ、ロックで」
低い声で注文し、出てきたグラスを揺らす。氷がカランと鳴る音が、やけに耳についた。
なぜ、あんなに露骨に避けてしまったのか。
理由は明白だ。怖いのだ。
「次」に進むことが。
先週末、漆原をカラオケに誘わず、日曜日のゴルフの報告もしなかったのは、意地悪ではない。無意識の防衛本能だった。
次に二人きりで、どちらかの部屋で過ごせば、もう「手でするまで」という猶予期間は終わる。大人の男同士として、最後まで踏み込むことになる。
目を閉じると、出張先のホテルで一度だけ、勢いに任せて重ねた夜の記憶が鮮明に蘇る。
あの時の、鋭い痛み。
身体的な痛みだけではない。自分より年下で、可愛い後輩だと思っていた漆原に、主導権を握られ、身体の奥まで暴かれたという事実に、男としてのプライドが音を立てて軋んだ。
女性経験なら豊富だ。リードする側、守る側、翻弄する側。そのどれもが自分の「領分」だと思っていた。だが、漆原に抱かれる自分は、そのどれでもなかった。
熱に浮かされ、声を上げ、なす術もなく与えられる快感と痛みに翻弄されるだけの、一人の剥き出しの人間。
その「無防備すぎる自分」を、あいつに晒し続ける覚悟が、今の自分にあるだろうか。
(あいつは……本気すぎるんだよ)
漆原崇彦という男は、何事にも全力だ。
仕事も、そして恋も。
あいつが自分に向ける視線には、一切の打算がない。だからこそ、それを受け止める側にも同等の「覚悟」が求められる。
遊びなら、いくらでも優しくできる。
だが、漆原は違う。中途半端な気持ちで付き合える相手ではないことはわかっている。
それなのに、今の自分はどうだ。
「ちゃんと考える」と言ったくせに、いざその時が来ると、安全な「職場の先輩」という箱に逃げ帰っている。
臆病なのは、あいつじゃない。俺のほうだ。
「……味気ねえな」
ふと漏れた独り言に、自分で驚いた。
口に含んだウイスキーは、いつも通り上質で、スモーキーな香りが鼻に抜ける。
だが、何かが足りない。
隣で、ビールをちびちびと飲みながら、こちらの冗談に一喜一憂し、時折耳を赤くして俯く、あの男がいない。
あいつのいない一人の時間は、自由なはずなのに、酷く空虚で、モノクロームの静止画のようだった。
無意識に、カウンターの上に置いたスマートフォンに手が伸びる。
メッセージアプリを開き、漆原の名前をタップする。
『今、飲んでる』
『今日は悪かった』
『金曜、飲みに行こう』
打っては消し、消しては打つ。
どの言葉も、今の自分には重すぎる気がしたし、かといって軽すぎる言葉はあいつをさらに不安にさせる気がした。
漆原のプロフィールのアイコン――設定もされていないデフォルトの影のような画像――を見つめていると、あいつが今、暗い部屋で一人、しょげかえってプロテインバーを齧っているのではないかという妄想が頭をよぎる。
あいつは、きっと待っている。
俺がシャッターを下ろしたその向こう側で、傷ついたことをおくびにも出さず、従順な犬のように、主人が扉を開けるのをじっと待っている。
その献身が、今の唐津には眩しすぎて、そして痛かった。
(何を怖がってるんだ、俺は。……相手は漆原なのに)
あいつは俺を笑ったりしない。俺のプライドを傷つけたりもしない。
あいつが欲しいのは、唐津の「完璧な姿」ではなく、ただ、唐津そのものなはずだ。
それなのに、勝手に一人で「男としてのプライド」だの「主導権」だのという、ちっぽけな鎧を握りしめている。
けれど、長年自分を形作ってきたそれを手放すことも決して容易ではないのだ。
結局、一行も打てないまま、唐津はスマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
今の自分にできるのは、漆原を追い詰めるような無責任な言葉を投げることではなく、自分の中の「怖さ」に決着をつけることなのだ。
「……チェック、お願いします」
席を立ち、代金を支払う。
バーを出ると、風が少し冷たくなっていた。
明日、会社に行けば、またあいつに会う。
どんな顔をして、あいつの前に立てばいいのか、まだ正解は見つからない。
けれど、今日のようにシャッターを下ろし続けることは、もうしたくないと思った。
漆原をがっかりさせたくない。
その想いだけは、嘘ではないから。
唐津は重い足取りで、一人きりのマンションへと歩き出した。
深夜の街灯に照らされた自分の影が、長く、どこか迷いを含んだまま揺れていた。
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