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第67話 冷えたコーヒーと二つのマグ
週明けの月曜日は、鉛のような曇り空で始まった。
本店営業部のフロアは、週末の溜まった案件を捌く怒号とキーボードの音で、朝から殺気立っている。
漆原は自席で、一度も開かなかった土日のチャット履歴を眺めていた。
土曜日の「サウナ上がった」という短いやり取り以降、唐津からの連絡は途絶えたままだ。日曜日のゴルフも、終わったという報告すらない。
(……忙しかっただけだ。接待ゴルフは疲れるし、夜はすぐ寝たんだろう)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に澱のような不安が沈殿していく。
金曜の飲み会。二次会のカラオケに流れていった唐津の背中。あの時、唐津は一度もこちらを振り返らなかった。
「次は二人で」と言ってくれたはずなのに、いざその距離が近づくと、するりと指の間を抜けていくような、そんなもどかしさが消えない。
「部長、先週のコンペの結果、資料に入れときますか?」
眞壁が声をかけてくるが、漆原の反応は一拍遅れた。
「……ああ。頼む」
「部長? 顔色悪いですよ。特茶、足りてます?」
「問題ない。仕事に戻れ」
短く突き放したが、視線は無意識に戦略部の島を探している。
そこには、いつも通り部下と談笑しながら資料をチェックする唐津の姿があった。
ネクタイを完璧に締め、隙のない笑顔を浮かべる「営業戦略部長」。その姿は、自分の部屋でコーヒーを飲み、無防備にソファに沈んでいた男と同一人物には見えない。
昼過ぎ、資料の受け渡しのために戦略部の島へ向かった。
仕事だ。不自然なことは何もない。そう自分に言い聞かせながら、漆原は唐津のデスクの前に立った。
「唐津さん。先週分の戦略支援のフィードバックです」
「お、漆原。わざわざ悪いな」
唐津は顔を上げた。
目が合う。
だが、その視線は驚くほどフラットだった。
熱も、揺らぎも、昨夜の余韻を思わせる微かな甘さも、何一つとしてそこにはない。
「ゴルフ、お疲れ様でした。スコアはどうでしたか」
「まあ、そこそこ。相手が上機嫌だったからよかったんじゃないか」
「そうですか。……良かったです」
言葉が続かない。
本当は「日曜、連絡待ってました」と言いたかった。
あるいは、「今週の金曜、空けてくれてますか」と確認したかった。
だが、唐津の纏う空気が、それを許さない。
親密さを拒んでいるわけではない。ただ、完璧な「同僚」としての壁を、これ以上ないほど高く、厚く築き上げている。
「じゃあ、これ、預かっておくよ。後で目を通しておく」
唐津は資料を受け取ると、すぐに隣の部下に声をかけた。
漆原がその場に留まる理由は、もうない。
(……避けられてる?)
背を向けて自席へ戻る道すがら、その疑念が確信に変わっていく。
嫌われたのではない。むしろ逆だ。
唐津の中で、何かが「防衛反応」を起こしている。
******
一方で、唐津は漆原の背中が遠ざかるのを、視界の端で追っていた。
ペンを握る手に、知らず知らずのうちに力が入る。
(……やべえな、俺)
自分でも情けないほど、自覚はあった。
あの朝、漆原の部屋で「ちゃんと考える」と言った。その覚悟をしたつもりだった。
だが、いざ週末に一人で過ごしてみると、急激に怖くなったのだ。
次に二人で会えば、「次」に進むことになる。
漆原の真っ直ぐな瞳。自分を求める熱い吐息。
それを受け入れるということは、今までの自分の「男としての価値観」や「遊びのルール」をすべて捨て去るということだ。
相手が漆原だからこそ、中途半端な気持ちでは壊してしまう。
だから、無意識に逃げてしまった。
金曜の飲み会も、日曜の沈黙も。
「次」に進むのが怖くて、安全な「職場の先輩と後輩」という箱に逃げ込んでしまった。
「部長、次の会議、そろそろです」
「……ああ、分かってる」
唐津は小さく溜息をつき、手元の資料を閉じた。
漆原の、あの不安げに揺れた瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
傷つけている自覚はある。だが、歩み寄る足がどうしても竦む。
******
夕方、漆原は給湯室で一人、冷たくなったコーヒーを流し捨てていた。
鏡に映る自分の顔は、驚くほど生気がない。
(また、先輩と後輩に戻されるんだろうか)
一度手に入れた熱が、指先から冷めていく感覚。
期待して、浮かれて、準備までしてしまった自分が、滑稽でならない。
その時、背後でドアが開く音がした。
振り返ると、そこには意外な人物が立っていた。
「あ、漆原部長。お疲れさまです!」
営業戦略室の本堂だ。
彼はいつもの明るい声で近づいてくると、漆原の隣でカップを洗い始めた。
「唐津部長、今日なんかピリピリしてません? さっきも俺が『週末のゴルフ、漆原部長と一緒だったんですか?』って聞いたら、『なんで?』って真顔で言われたんですよ」
漆原の心臓が、ドクリと大きく波打った。
「……何で、そんなことを聞いたんだ」
「え? 部長たち最近よく一緒にいるから……。唐津部長、昨日のゴルフのこと『プライベート』だって言ってたんで、てっきり漆原部長かなーと」
事もなげに言いながら、本堂は洗い終えたカップを棚に戻す。
「でも違ったんですね。今日の唐津部長、仕事以外だと完全にシャッター下ろしてる感じなんで、スコアが悪かったのかもしれないですね」
「……そうか」
漆原は、それ以上言葉を続けることができなかった。
(接待じゃなかったんだ。じゃあ……誰と行ってたんだろう)
プライベート。
それが誰なのか、性別すら分からない。けれど、少なくとも自分ではなかった。
本堂が去った後の給湯室で、漆原は空になった自分の手元を見つめる。
──ゴルフ、誰と行ったんですか
聞けない。
恋人の距離に浮かれていたが、休日を誰と過ごそうが本来は唐津の勝手だ。
それを詮索するのは、きっと“重い”。
漆原は重い足取りでフロアに戻ったが、仕事に向かう。
自席から見える唐津の背中は、相変わらず忙しなく動いている。時折、他の社員と談笑する横顔が見えるが、その笑顔はどこか定型的で、入り込む隙がない。
(追い詰めたら、ダメだ……)
漆原は膝の上で拳を握りしめた。
自分でも分かっている。ただでさえ色恋は得意ではないのに、唐津のこととなると圧倒的に臆病なってしまう。
唐津が「次」を恐れて踏みとどまっているのなら、無理強いはしたくないし、嫌われたくない。これ以上、距離を置かれるのが何よりも怖い。
19時を過ぎ、フロアの明かりが少しずつ落とされていく。
唐津が荷物をまとめ、席を立ったのが見えた。
今、声をかければ。
「メシでも」と言えば、あるいは。
漆原の喉まで出かかった言葉は、唐津の冷徹なまでに完璧な「部長の顔」を見て、そのまま飲み込まれた。
唐津は一度もこちらを見ることなく、エレベーターホールへと消えていった。
残された漆原は、暗い画面のスマートフォンをただ握りしめる。
「お疲れさまです」の一言すら、送信ボタンが押せない。
(どうすればいいのか、全然わからない……)
仕事のトラブルなら、解決策はいくらでも浮かぶ。
だが、この胸の痛みを取り除く方法は、どのビジネス書にも載っていなかった。
その夜、漆原は自宅のキッチンで、昨日洗ったばかりの二つのマグカップを眺めていた。
並んでいるのが、酷く虚しい。
唐津は今、何をしているだろう。
一人きりなのか、それとも誰かと過ごしているのか。
漆原にできるのは、ただ、静かに待つことだけだった。
唐津が再び、自分に笑いかけてくれるその時まで。
けれどそれは、あまりにも長く、孤独に感じられた。
暗いリビングに、特茶の冷たいペットボトルが結露して、小さな水溜りを作っていた。
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