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第66話 隣にいない金曜日

金曜の夕方、本店のフロアは一週間分の熱を吐き出すようにざわめいていた。電話の声はどこか軽く、数字の確認もどこか弾んでいる。期初の週を無事に終えた安堵と、週末への期待が、あからさまに空気を柔らかくしている。 漆原は自席で端末を閉じながら、視線の端で唐津の動きを追っていた。戦略部の島では、部員たちがすでに週末モードの空気を纏っている。唐津はその中心で何かを説明しながら、いつものように短く笑っていた。 今週は、二人で飲めるかもしれないと思っていた。月曜の夜にロビーで缶コーヒーを飲んだあと、特に約束をしたわけではない。それでも、なんとなく金曜の終わりには顔を合わせる流れができつつあったから、自然にそうなるのではないかと、どこかで期待していた。 「部長、今日どうします?」 眞壁が資料を抱えたまま声をかけてくる。 「どう、とは」 「いや、金曜ですし。四部長が“軽く行こう”って言ってて」 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに沈む。 軽く。 四部長。 つまり、複数人だ。 断る理由はない。むしろ、部長としては顔を出すべきだ。だが、頭のどこかで想定していた“二人での金曜”は、その瞬間に静かに形を変えた。 「参加する」 そう答えるしかない。 店は本店から歩いて数分の、魚が売りの居酒屋だった。暖簾をくぐると、炭の匂いと出汁の香りが混じった、いかにも週末らしい空気が広がっている。すでに四部長と若手たちが席についていて、奥のほうには唐津と本堂の姿もあった。 席は自然と分かれる。 漆原は四部長の隣、若手女性陣の向かい。 唐津は斜め向こう、本堂と並んでいる。 距離は遠くない。 だが、近くもない。 乾杯の声が上がり、日本酒の瓶が並び始める。刺身の盛り合わせ、焼き魚、白子。魚の質が良い店だ。唐津はすでに日本酒を手にしていて、グラスを軽く傾けながら本堂と何かを話している。 その横顔を、どうしても見てしまう。 グラスを持つ手が落ち着いていて、笑うときの目元が少しだけ緩む。週末の男の顔だ。会社で見る戦略部長の顔より、少しだけ色気がある。 (……格好いい) 視線を戻す。 見すぎだ。 四部長が大きな声で笑い、若手がそれに応える。話題は営業の数字から、なぜか趣味の話へと移り、店の空気はどんどん柔らかくなっていく。 だが漆原の意識は、どうしても斜め向こうに引かれてしまう。 唐津は日本酒をゆっくり飲みながら、若手の相談に乗っているようだった。頷き方が柔らかい。時折、冗談を言って笑わせる。人気者だ。自然と人が寄っていく。 (ああいうところが……) 好きだ、とは思わないようにしている。 だが、惹かれるのは事実だ。 料理が進み、酒が回る。四部長が「二次会行くぞ」と声を上げたのは、当然の流れだった。若手たちは一斉に立ち上がり、どこへ行くか相談を始める。 「カラオケ行きましょうよ!」 誰かが言う。 その声に、唐津が笑って頷くのが見えた。 胸が、少しだけ落ちる。 二人でどこかへ、という流れにはならない。 当たり前だ。 これは飲み会だ。 部長同士の距離ではない。 「漆原さんも行きましょうよ」 若手に声をかけられる。 「俺はいい。今日は帰る」 自然な返答。 誰も深くは追及しない。 店の前で解散の流れになり、カラオケ組がぞろぞろと歩き出す。唐津もその中にいる。こちらを一瞬見るかと思ったが、若手に腕を引かれて、そのまま流れに乗っていった。 人気者だ。 そういうところが、あの人らしい。 一人で駅へ向かう。夜風が少しだけ冷たい。さっきまでの店の熱気が嘘のように消えている。 スマートフォンを取り出す。 何か来ているかと思ったが、通知はない。 (当たり前だ) カラオケにいるのだから。 わかっている。 だが、どこかで期待していた。 家に着き、スーツを脱ぎ、ソファに座る。テレビをつける気にもなれず、そのまま天井を見上げる。 (……寂しいな) そう思ってから、すぐに否定する。 寂しい、というのは子どもっぽい。 大人の距離だ。 無理に独占するものではない。 それでも、胸の奥に小さな空洞がある。 スマートフォンを手に取る。 画面は静かなままだ。 そのままソファに横になり、いつの間にか眠っていた。 翌朝、着信音で目が覚める。 画面を見ると、唐津の名前。 心臓が一気に跳ね上がる。 折り返す。 コール音。 出ない。 もう一度。 出ない。 数分後、メッセージが届く。 『今サウナ』 力が抜ける。 少し笑ってしまう。 『昨日はすみません、寝てました』 そう送ると、すぐに返信。 『気にすんな。今日も予定あるから、またな』 予定。 続けて、 『明日ゴルフ』 短い一言。 胸が少しだけ沈む。 (……忙しい人だ) 当たり前だ。 自分も忙しい。 それでも、もう少しだけ話したかったと思ってしまう。 『了解です。よい週末を』 そう返す。 送信してから、画面を見つめる。 寂しいとは言わない。 言ったらいけないと思う。 言いたいわけじゃない。 だが、胸の奥が静かに満ちている。 好きだ、と思う。 ただ、それだけで。 ソファにもたれ、目を閉じる。 週末は、まだ続く。 次に会えるのは、また会社だろう。 その距離が、少しだけ遠く感じた。

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