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第65話 触れない距離

月曜の夜、本店のフロアはいつもより少し遅くまで灯りが残っていた。 期初の週は、誰もが余計な油断を許さない。数字は静かに積み上がり始めているが、まだ形にはなっていない。その曖昧な手触りが、営業の空気をわずかに張りつめさせる。 漆原は自席で画面を見つめながら、昼間の廊下でのやり取りを何度も反芻していた。 「金曜の自分の顔、忘れたのか」 あの一言。 からかわれただけだ。 それなのに、胸の奥に妙に長く残っている。 見透かされている。 だが、それが嫌ではなかった。 キーボードを叩く手を止め、ふと視線を上げると、フロアの向こう側で唐津が部員と短い打ち合わせをしているのが見えた。声は低く落ち着いていて、指示は端的で、余計な感情は一切混じっていない。戦略部長の顔だ。 あの横顔が、週末にビアバーでグラスを持って笑っていた男と同じだとは、にわかに信じがたい。 (……切り替えがうますぎる) 酒で綻んだ横顔も、夜の気配に染まる色気も、触れった熱や寝起きの無防備ささえ知っているというのに、今はどこか遠い。 いや、自分が切り替えられていないだけかもしれない。 唐津はふとこちらを見た。 目が合う。 ほんの一瞬。 だが、漆原の胸はまた騒がしくなる。 表情は動かさない。 そのまま視線を落とし、資料に戻る。 (落ち着け) だが身体は正直だった。 唐津が視界に入るだけで、意識が微妙にそこへ引き寄せられる。 夜八時を回り、部員たちがひとり、またひとりと帰っていく。 漆原は最後の確認メールを送信し、端末を閉じた。 帰ろうと立ち上がった瞬間、スマートフォンが震える。 画面には短い文字。 『まだ残ってるか』 唐津からだった。 心臓が一拍、強く跳ねる。 『今、上がるところです』 すぐに返信する。 送信ボタンを押したあと、ほんのわずかに後悔する。 また「子犬」と揶揄われるような気がする。 だからといってそっけなさを装うのも不自然だし子どもっぽい。 数秒後、また震える。 『なら、下でコーヒーでも飲んで帰るか』 胸の奥が、じわりと温かくなる。 断る理由はない。 むしろ、断りたくない。 『はい』 それだけ打って、急いでエレベーターへ向かう。 ロビーの自販機の前で唐津は立っていた。 ネクタイを少し緩め、シャツのボタンも外している。仕事終わりの顔だ。 「お疲れ」 「お疲れさまです」 缶コーヒーを二本買い、一本を無言で渡してくる。 その何気ない動作が、やけに親密に感じられる。 飲みの誘いじゃない、その距離が却って気遣いにも感じられた。 ロビーの隅のベンチに並んで座る。 距離は拳ひとつ分。 近いが、触れない。 自販機の光が二人の足元を照らしている。 「今日は怖かったぞ、第一部」 唐津が笑う。 「通常運転です」 「嘘つけ。眞壁が萎縮してた」 「……」 言い返せない。 唐津は缶を開け、小さく一口飲む。 「気合入るのは悪くない。ただな、顔に出すな」 その言い方は柔らかい。 叱責ではなく、気遣いだ。 漆原は視線を缶に落とす。 「……意識しすぎました」 「何をだ」 わかっていて聞いている声。 漆原は答えられない。 数秒の沈黙。 唐津がふっと笑う。 「まあ、いいけどな」 その声音に、ほんの少しだけ甘さが混じる。 夜風がロビーを抜ける。 ほんの一瞬、肩が触れそうになる。 触れない。 「週末、楽しかったな」 唐津がぽつりと言う。 その一言で、胸の奥がまた跳ねる。 「……はい」 「悪くないなって思ったよ」 冗談めかしているが、目はまっすぐだ。 漆原は顔を上げられない。 「……浮かれてました」 「知ってる」 即答。 耳が熱くなる。 唐津は続ける。 「でもさ」 そこで少し間を置く。 「おまえの浮かれてる顔、嫌いじゃない」 言葉が静かに落ちる。 漆原の喉がひくりと鳴る。 触れていないのに、距離が縮まった気がする。 「……唐津さんは」 「ん?」 「平気なんですか」 自分でも何を聞いているのかわからない。 唐津は少しだけ視線を遠くへやる。 「平気って?」 「その……」 言葉が出ない。 唐津は小さく息を吐く。 続きはない。 だが、今はそのほうが良かった。 核心には触れない距離。 それでも確かに同じ方向を見ていると思える。 立ち上がる。 「帰るか」 「はい」 自動ドアが開き、夜の空気が流れ込む。 外へ出ると、歩幅が自然に揃う。 肩が触れそうで触れない。 駅前で立ち止まる。 「じゃあな」 「お疲れさまでした」 ほんの一拍、沈黙。 唐津が小さく笑う。 「顔、戻ってるぞ」 「……」 何も言えない。 「いいことだ」 それだけ言って、背を向ける。 漆原はその背中を見送る。 追いかけたいわけではない。 だが、もう少しだけ一緒にいたいと思う自分がいる。 触れない距離。 それが今はちょうどいいのかもしれない。 夜風の中で、漆原はゆっくり息を吐く。 まだ進まない。 けれど、止まってもいない。 その曖昧な位置にいることが、不思議と心地よかった。

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