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第64話 月曜のポーカーフェイス
月曜の朝の本店フロアは、週末の余韻を一切許さない明るさに満ちていた。
自動ドアが開くたびに冷たい外気が流れ込み、社員たちがそれぞれの持ち場へ吸い込まれていく。
その流れの中に立ちながら、漆原は背筋を伸ばしすぎている自分に気づいていた。
胸の奥にまだ残っている土曜の夜の温度を、呼吸の奥へ押し込めるようにして歩く。
ビアバーの前で別れたときの唐津の横顔が、どうしても離れない。
軽く手を上げただけの別れ方だったのに、あの短い時間がやけに鮮明に残っていて、思い出すたびに心臓が妙に忙しくなる。
ここは会社だ、と頭では何度も繰り返すのに、身体のほうが先に反応してしまう。
フロアに入ると、眞壁がすでに動き回っていて、新任の若手が資料を抱えている。
漆原はいつも通り、短く頷きながら自席へ向かう。
週の始まりの空気は硬い。
下期のスタートならなおさらだ。
部長としていつもの顔を被るのは難しくないはずなのに、今日はやけに意識してしまう。
そのとき、視線の端に唐津の姿が入った。
戦略部の島から出てきたところだった。ほんの一瞬、目が合う。
それだけで、心臓が跳ねる。
表情は動かさない。動かせない。
逸らすと不自然になる気がして、ほんの一拍だけ視線を合わせてから、自然に外す。
足は止めない。止めたら何かがばれる気がする。
唐津はいつも通りの顔で、ほんのわずかに口角を上げただけだった。まるで土曜の夜などなかったかのような、戦略部長の顔。
余裕がある……ような気がする。
(……俺だけが、こんなに)
そう思った瞬間、また目が合う。
今度は唐津のほうが一拍長く視線を置いたように見えた。
漆原の喉がひくりと鳴る。
(……いや、やっぱり唐津さんも?)
気にしてはいけないことが気になり過ぎて困る。
ここは会社だ。
第一部長としての朝だ。
午前の役員会議は下期初週らしく、無駄な空気が一切なかった。
資料のページが静かにめくられ、数字が読み上げられ、質問は短く鋭い。
漆原は第一部の進捗を淡々と報告し、必要な論点だけを置いていく。
声は安定している。視線もぶれない。
唐津がそのあとに続き、戦略面の補足を入れる。
無駄のない言葉選びと、即答できる判断力。
何度も見てきた姿のはずなのに、横顔を見ないように意識している自分がいる。
資料の受け渡しの瞬間、また視線が交わる。
ほんの刹那。
だが唐津が、ほんの少しだけ目を細めたように見えた。
漆原の胸がさらに騒がしくなる。
(……今のって?!)
そんなことを考えてしまう自分が情けなくて、すぐに視線を落とす。
ここでそんなことを考えている場合ではない。
だが頭の片隅で、どうしても期待してしまう。
会議が終わり、フロアに戻ると、営業の音が一気に押し寄せてきた。
電話、キーボード、短い報告。いつもの戦場の音だ。
漆原はその中心に立ち、部員たちを集める。
「今週は期初の流入を作る。先週の達成に浸るな。熱が残っているうちに次へ繋げる」
声は低く、簡潔。
指示も短い。
だが自分でもわかる。少し硬い。
「眞壁、メインのは今日中に先方に投げろ。若手は午前アポ、午後同席。週末に一度締められるように前倒しで動くぞ」
「はい!」
部員たちは一斉に動き出す。
スタンドアップが終わったあと、眞壁が近づいてきて、小さく笑った。
「部長、なんか……気合入ってますね」
漆原は端末から目を離さない。
「下期のスタートだからな」
クールに返したつもりだった。
だが眞壁は「ですよね」と言いながらも、どこか様子をうかがう顔をして去っていく。
(……やりすぎたか)
ポーカーフェイスを意識しすぎて、逆に近寄りがたくなっている。
だが、余計な熱を出すよりは、冷たいほうがましだ。
熱く鼓舞するやり方は自分に向いていないのだから仕方がない。
午後、別フロアから戻る途中、廊下の角で唐津とすれ違った。
「お疲れ」
いつもの声。
漆原も「お疲れさまです」と返し、通り過ぎようとする。
だが唐津が足を止めた。
「新任だっているんだ、あんまり怖い顔してビビらせるなよ」
からかうような声音。
漆原の思考が止まる。
怖い顔。
自分では冷静のつもりだった。
「……してません」
短く返したが、声が少しだけ固い。
唐津は笑う。
「してるって。金曜の自分の顔、忘れたのか」
その言葉に、耳の奥まで熱が走る。
金曜。
その単語を会社の廊下で出されるのは、反則だ。
顔を伏せるしかなかった。
「……すみません」
何に謝っているのか、自分でもわからない。
ただ、顔が熱い。
唐津は小さく笑い、軽く肩を叩く仕草だけして歩き去る。
見透かされている。
必死に押し込めているものを、あの人は簡単に見つける。
恥ずかしい。
でも、少し嬉しい。
フロアへ戻る途中、壁に映った自分の顔をちらりと見る。
頬が少し赤い。
(……だめだ)
そう思いながら、胸の奥は軽い。
見抜かれている。
それでも、嫌ではない。
むしろ、気づいてくれていることが、少しだけ安心する。
自席に戻り、端末を開く。
画面に数字が並ぶ。
指示を出す。
部長としての動きは止まらない。
だが、ふとした瞬間に、廊下でのやり取りが蘇る。
金曜の顔。
それを指摘されて、嫌ではなかった自分がいる。
(……特別扱い、されてる気がする)
そう思った瞬間、耳がまた熱くなる。
視線を落とし、資料をめくる。
部長としての顔を崩さないようにしながら、小さく息を吐く。
見透かされているのが恥ずかしい。
けれど、見透かされていることが、少しだけ嬉しい。
営業部長の顔でキーボードを叩きながら、胸の奥に残る余韻をそっと噛みしめた。
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