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第63話 半歩のまま、夜

漆原とビアバーの前で別れ、背中を向けた瞬間、唐津は一度だけ振り返りそうになったが、さすがにそれはやめておいた。 土曜の夜の街はまだ人が多く、店の明かりもにぎやかで、さっきまで隣にいた男の気配が、雑踏の中にゆっくりと溶けていく。 軽く手を上げて別れただけなのに、妙に胸の奥が温かいまま残っているのが、少し可笑しかった。 タクシーを拾うほどの距離でもないので、そのまま歩いて帰る。 夜気が少し涼しくて、酔いがちょうどよく回る。 牡蠣とビールと、そのあとに飲んだウイスキーの余韻が、喉の奥にまだ柔らかく残っていた。 (……あいつ、ずっと嬉しそうだったな) ビアバーでグラスを持つ手が、ほんの少し落ち着かなくて、それでも必死に平静を装っているのがわかるくらいには、もう互いの距離は近い。 注文した料理が来るたび、目を輝かせる。 こちらが「うまいな」と言えば、ほっとしたように頷く。 本店の第一部長が見せる顔とは、あまりにも違う。 あの男は、会社では冷静だ。 無駄がなく、判断も速く、感情を表に出さない。 あの戦場の中心で、数字を動かすときの目を、唐津は何度も見てきた。 だが、週末の夜になると、ああしてわかりやすく嬉しそうな顔をする。 しかも、それを隠そうとしているのに、隠しきれていない。 「……可愛いよな」 小さく呟いて、すぐに苦笑した。 自分が何を言っているのかと思う。 だが、どうしようもなくそう感じてしまうのだから仕方がない。 マンションに着き、エントランスの自動ドアを抜ける。 エレベーターの中で、鏡に映った自分の顔を見ると、いつもより少しだけ緩んでいる気がした。 酒のせいだけではない。 多分、今日一日のせいだ。 部屋に戻り、靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。 静かな空気が広がる。 いつもの自分の部屋の匂いだ。 だが、今夜だけはどこか違う。 さっきまで、すぐ隣にあいつがいた。 それだけで、部屋の温度が少し変わったように感じる。 冷蔵庫から水を取り出し、ひと口飲む。 喉に落ちる冷たさが、少しだけ現実に引き戻してくれる。 だが、完全には戻らない。 ソファに腰を下ろし、天井を見上げる。 今日一日の流れが、ゆっくりと頭の中で再生される。 朝、キッチンで立ち尽くしていた漆原の背中。 味噌汁を飲んだときの顔。 コーヒーを両手で持っていた姿。 そして―― 『先も、考える』 言ってしまった自分の声が、はっきりと蘇る。 「……マジかよ、俺」 思わず声が漏れた。 軽く流すこともできた。 冗談めかして誤魔化すこともできた。 だが、あの場でそれはできなかった。 期待に満ちた目だった。 押しつけてくるわけではない。 ただ、待っているだけの目。 ああいう目を向けられると、弱い。 「……ほんと、まっすぐなんだよな」 正直すぎる。 間髪いれずに「思ってます」と答えたときは、さすがに笑いそうになった。 だが、そのあと慌てて言葉を足したところまで含めて、全部本音だった。 あの顔を思い出すと、胸の奥がじんわり温かくなる。 だが同時に、少しだけ怖い。 この先をどうするのか。 どこまで行くのか。 どこまで行けるのか。 風呂に湯を張る。 今日はシャワーではなく、湯船に浸かりたかった。 頭を冷やすためなのか、逆に温めるためなのか、自分でもよくわからない。 湯に身体を沈める。 熱がじわじわと広がる。 目を閉じると、今日の会話がまた浮かぶ。 『ちゃんと考える』 あれは、軽い言葉ではない。 自分でもわかっている。 あの場で言った時点で、もう一歩踏み出している。 (言っちまったんだよな、つい……) 苦笑が漏れる。 完全に受け入れているかといえば、そうではない。 だが、妙に落ち着いている。 あいつといると、落ち着く。 変に気を張らなくていい。 駆け引きもしなくていい。 それが、心地いい。 だが、それと「この先」を決めるのは別の話だ。 男同士だとか、会社だとか、年齢だとか、そういう現実的なことも、もちろん頭にはある。 けれど、今一番気持ちを動かすのは、そこではない。 (……あいつの顔、なんだよな) 期待に満ちた目。 それを、可愛いと思ってしまった。 あの瞬間、少しだけ負けた気がした。 「やばいな、俺」 湯の中で小さく呟く。 こんなふうに真面目に考えるのは、いつ以来だろう。 恋愛はしてきた。 だが、こんなふうに「先」を考えるのは、かなり久しぶりだ。 湯から上がり、タオルで髪を拭く。 リビングに戻ると、部屋はすっかり静かだ。 さっきまでの賑やかな店の空気が嘘みたいに消えている。 ソファに座り、スマホを手に取る。 連絡するつもりはない。 ただ、名前が一番上にあるのを確認するだけ。 画面を閉じる。 「……いったん、やめるか」 声に出すと、少し楽になった。 今ここで答えを出す必要はない。 急ぐ必要もない。 あいつは待てる。 待てるくせに、時々まっすぐな目でこちらを見る。 あれがずるい。 だが、嫌ではない。 触れた口唇、絡み合う指先、首筋にかかる吐息の熱さ、感じた昂りを否定はできない。 過去の経験とか常識とか全部吹き飛んで、ただ目の前にある情熱に身を委ねる、そんな風にして誰かに触れるのは随分と久しぶりだった。 「どうかしてるよな、けど……」 ソファにもたれ、目を閉じる。 今夜は、考えすぎない。 ただ、今日の余韻だけを抱えておく。 ビアバーで並んで飲んだ時間。 笑った声。 帰り際の短い会話。 それだけで、十分だ。 完全な一人の夜のはずなのに、どこかにまだ、もう一人の気配が残っている。 それが、悪くなかった。

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