64 / 64
第63話 半歩のまま、夜
漆原とビアバーの前で別れ、背中を向けた瞬間、唐津は一度だけ振り返りそうになったが、さすがにそれはやめておいた。
土曜の夜の街はまだ人が多く、店の明かりもにぎやかで、さっきまで隣にいた男の気配が、雑踏の中にゆっくりと溶けていく。
軽く手を上げて別れただけなのに、妙に胸の奥が温かいまま残っているのが、少し可笑しかった。
タクシーを拾うほどの距離でもないので、そのまま歩いて帰る。
夜気が少し涼しくて、酔いがちょうどよく回る。
牡蠣とビールと、そのあとに飲んだウイスキーの余韻が、喉の奥にまだ柔らかく残っていた。
(……あいつ、ずっと嬉しそうだったな)
ビアバーでグラスを持つ手が、ほんの少し落ち着かなくて、それでも必死に平静を装っているのがわかるくらいには、もう互いの距離は近い。
注文した料理が来るたび、目を輝かせる。
こちらが「うまいな」と言えば、ほっとしたように頷く。
本店の第一部長が見せる顔とは、あまりにも違う。
あの男は、会社では冷静だ。
無駄がなく、判断も速く、感情を表に出さない。
あの戦場の中心で、数字を動かすときの目を、唐津は何度も見てきた。
だが、週末の夜になると、ああしてわかりやすく嬉しそうな顔をする。
しかも、それを隠そうとしているのに、隠しきれていない。
「……可愛いよな」
小さく呟いて、すぐに苦笑した。
自分が何を言っているのかと思う。
だが、どうしようもなくそう感じてしまうのだから仕方がない。
マンションに着き、エントランスの自動ドアを抜ける。
エレベーターの中で、鏡に映った自分の顔を見ると、いつもより少しだけ緩んでいる気がした。
酒のせいだけではない。
多分、今日一日のせいだ。
部屋に戻り、靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。
静かな空気が広がる。
いつもの自分の部屋の匂いだ。
だが、今夜だけはどこか違う。
さっきまで、すぐ隣にあいつがいた。
それだけで、部屋の温度が少し変わったように感じる。
冷蔵庫から水を取り出し、ひと口飲む。
喉に落ちる冷たさが、少しだけ現実に引き戻してくれる。
だが、完全には戻らない。
ソファに腰を下ろし、天井を見上げる。
今日一日の流れが、ゆっくりと頭の中で再生される。
朝、キッチンで立ち尽くしていた漆原の背中。
味噌汁を飲んだときの顔。
コーヒーを両手で持っていた姿。
そして――
『先も、考える』
言ってしまった自分の声が、はっきりと蘇る。
「……マジかよ、俺」
思わず声が漏れた。
軽く流すこともできた。
冗談めかして誤魔化すこともできた。
だが、あの場でそれはできなかった。
期待に満ちた目だった。
押しつけてくるわけではない。
ただ、待っているだけの目。
ああいう目を向けられると、弱い。
「……ほんと、まっすぐなんだよな」
正直すぎる。
間髪いれずに「思ってます」と答えたときは、さすがに笑いそうになった。
だが、そのあと慌てて言葉を足したところまで含めて、全部本音だった。
あの顔を思い出すと、胸の奥がじんわり温かくなる。
だが同時に、少しだけ怖い。
この先をどうするのか。
どこまで行くのか。
どこまで行けるのか。
風呂に湯を張る。
今日はシャワーではなく、湯船に浸かりたかった。
頭を冷やすためなのか、逆に温めるためなのか、自分でもよくわからない。
湯に身体を沈める。
熱がじわじわと広がる。
目を閉じると、今日の会話がまた浮かぶ。
『ちゃんと考える』
あれは、軽い言葉ではない。
自分でもわかっている。
あの場で言った時点で、もう一歩踏み出している。
(言っちまったんだよな、つい……)
苦笑が漏れる。
完全に受け入れているかといえば、そうではない。
だが、妙に落ち着いている。
あいつといると、落ち着く。
変に気を張らなくていい。
駆け引きもしなくていい。
それが、心地いい。
だが、それと「この先」を決めるのは別の話だ。
男同士だとか、会社だとか、年齢だとか、そういう現実的なことも、もちろん頭にはある。
けれど、今一番気持ちを動かすのは、そこではない。
(……あいつの顔、なんだよな)
期待に満ちた目。
それを、可愛いと思ってしまった。
あの瞬間、少しだけ負けた気がした。
「やばいな、俺」
湯の中で小さく呟く。
こんなふうに真面目に考えるのは、いつ以来だろう。
恋愛はしてきた。
だが、こんなふうに「先」を考えるのは、かなり久しぶりだ。
湯から上がり、タオルで髪を拭く。
リビングに戻ると、部屋はすっかり静かだ。
さっきまでの賑やかな店の空気が嘘みたいに消えている。
ソファに座り、スマホを手に取る。
連絡するつもりはない。
ただ、名前が一番上にあるのを確認するだけ。
画面を閉じる。
「……いったん、やめるか」
声に出すと、少し楽になった。
今ここで答えを出す必要はない。
急ぐ必要もない。
あいつは待てる。
待てるくせに、時々まっすぐな目でこちらを見る。
あれがずるい。
だが、嫌ではない。
触れた口唇、絡み合う指先、首筋にかかる吐息の熱さ、感じた昂りを否定はできない。
過去の経験とか常識とか全部吹き飛んで、ただ目の前にある情熱に身を委ねる、そんな風にして誰かに触れるのは随分と久しぶりだった。
「どうかしてるよな、けど……」
ソファにもたれ、目を閉じる。
今夜は、考えすぎない。
ただ、今日の余韻だけを抱えておく。
ビアバーで並んで飲んだ時間。
笑った声。
帰り際の短い会話。
それだけで、十分だ。
完全な一人の夜のはずなのに、どこかにまだ、もう一人の気配が残っている。
それが、悪くなかった。
ともだちにシェアしよう!

